金ちゃんは、2年生の4月になってクラス替えがあり、それから、ちょくちょく学校を休むようになっていました。もともと体力には自信がありません。
<今までよくもったな>、とさほど気にしていなかったのです。
しかし、そんな状態が続くと、何か他に理由があるようだと思い始めました。
金ちゃんに聞きますが、はっきりとした答えは返ってきません。
そしてずるずると朝のホームルームにも遅刻する日が続きました。
「担任の先生に呼ばれて話をしてきた。
なんで勉強しなくちゃいけないのか、大学に、なんで行くのかって。
斎藤一人さんは、中卒でも納税日本一なんです、そんな人もいるんですって言った」
「それで、先生はなんて」
「本気でやりたいことがあれば、先生だって止めないよって。そうでなければ、すすめないって」
「先生はまともなこと言ってると思うよ」
金ちゃんは不満顔です。
なにか、違う理由がありそうです。
それに、先生が心の中で<迷惑かけんなよ>と思っているのを見抜いているのです。
あの先生は「たぬき」だと言うのです。
私は金ちゃんの通っている高校でPTAの仕事をしていました。
そして委員会のとき、金ちゃんが、休みがちなことを相談しました。すると、
「うちの子も、2年生になってから、コースごとに教室の移動があって、友達が出来ないみたいで。『お弁当もひとりで食べてる』って言ってる」
とか、
「『居場所がない』って言ってる。自分のイスに他の人が座ってる事があるみたいなのね、居場所がないってつらいよ」
と教えてくれました。
私は、大事な物をもらったようにして、家に帰りました。金ちゃんが学校を休む理由が分かったのです。
「金ちゃんだけじゃないよ、みんな居場所がないって言ってたよ」
これで少しは心が軽くなると期待していたのです。
しかし、金ちゃんは相変わらず、休みがちでした。
ある日、学校を休んでいる金ちゃんをテニスの壁打ちに誘いました。先にそのコートを使っていた、40代くらい男性が
「もう帰るから、全面使って」と場所を開けてくれました。その他人のやさしさに触れて金ちゃんは少し心が動いたようです。
帰りにマックでハンバーガーを食べているときに聞いてみました。
「最近なにかあったの」
金ちゃんは素直そうな顔を母親に向けました。
「やる気が出ないんだ。なんかさっきの人、余裕がある感じ。昼間にテニスって、何やってる人だろ」
「うーん、優秀な人っぽかったね。進学校の生徒が、ちょっと学校さぼって、みたいな感じがしたんじゃない。
金ちゃんは、やる気が出ないって言ってたけどさっきみたいな人が世の中にはいるよ、良質の大人、がいると思うよ。
これからそういう人に出会って、評価されるように頑張ればいいんじゃない」
風が吹いてきて、金ちゃんは少しさわやかそうな顔をしました。
私も昔悩んでいたときに、赤の他人のちょっとした優しさに、辛かった心が軽くなることがありました。
金ちゃんもそんなことを感じたのかもしれません。それに少しは、私の話に心を動かされたのかもしれない、その時はそう思っていたのです。
それからしばらくたったある日、同じ委員会の人たちと郵便局へ歩いて行くところでした。
その道すがら犬山先生の話が出ました。
1年生の保護者のさーさんが「犬山先生ってどうなんですかね」と話し始めました。
「うちの子が、部活中にトレーニング室でトレーニングをしてたんですけど、その部屋のドアが古くて立て付けが悪くて閉じ込められちゃったらしいんです。
そこに、工藤くんが来てくれて、開けてくれたんですけど、固いから、こう、力を入れたらガラスが割れちゃったんですね。
そのことで工藤君が怒られて。助けてくれたのに、申し訳なくて。
その後、大丈夫かって心配されることもなく『弁償してもらうかもしれない』って犬山先生が、言ってたと、猪崎先生から言われて。
その後で授業中に『またお前か』みたいなことを言ってくるらしくて。精神的にまいってるみたいで」
さーさんは一気に話しました。
私はそれを聞いて怒りが込み上げました。
「なんで、怒られるんですか。わざとやったわけではないですよね。
逆に、『ここは立て付けが悪いから注意するように』って初めに言っておくべきじゃないんですか」
「それは、聞いてないんですよね」
「それはおかしい、監督責任、いえ、管理側の責任じゃないんですか。私なら言っちゃうかも」
「管理側ですか」
わざとガラスを割ろうとしたのでなければ、罪は軽いはずです。
それに部活の先生が「ここを使用するときは、気を付けるように」と最初に言っておけば、このようなことは起こらなかったのではないでしょうか。
「立て付けの悪いガラスの戸を放置していた。学校側に報告していなかった。生徒に注意をしていなかった」責任があります。
だから工藤君のせいであるように言うのはおかしいのです。
その責任を、すべて生徒に、押し付けていることになります。
もし、かりに、それをわかってやっているのであれば…。
学校の管理側の責任は、この危険がある施設を放置していたことと、教師を放置していたこと。
きちんと事情を確認して、生徒に謝罪させるべきです。
それまで黙って聞いていたまーさんが言いました。
「言うんなら、本人じゃなくて、担任とか、学年主任とかね、本人だと感情的になっちゃうから」
私は少し抑えて話を始めました。
「うちの子は1年の末のいじめアンケートに『犬山先生に精神的に虐待されている』、と書いたみたいなんですよ」
「え、そうなんですか。それでどうなりましたか」
「収まったって言ってました」
「…そうなんですか」
さーさんが興味を示したようでした。
学校に言いつけても、どう思われるのか、分からなかったからです。
また、犬山先生がどのような反応を示すか分かりません。
言いつけられた腹いせに、子供にきつく当たることも考えられました。
しかし、金ちゃんが勇気を出して訴えたことで、「言えば収まる」という事が分かったのです。
私はもっと詳しく話しておくべきだと思いました。
「うちの子の場合は、みんなでまとめて、リュックを置いておいたのが、
人の通り道で、邪魔になる所だったみたいで。
犬山先生に注意されたみたいなんですけど、その注意の仕方が、『人間としてどうなんだ』って言い方をする、
とか言ってましたね。ま、人間として…。」
その話だけでは、よくある事のように感じました。
しぐさや関係性(教師と生徒)場所など、中身(生徒がどう感じているか)がパワハラの定義のようですが、程度の問題があると思われます。
この頃の金ちゃんにはそんな小さな抵抗は、乗り越えられると思っていたのです。
そして、多少いろいろあって、強くなっていくことを期待してもいました。
「あと、格技場に入るのに履物を忘れて、『借りてこい』と言われて、
うちの子大人しいから、どうしていいのか分からなくなっちゃったみたいなんですね。
他の先生に言ったらよくしてくれたみたいなんですけど」
さーさんは、「大人しい」というところで、胸に詰まるものを感じたようでした。
「ターゲットみたいに」
「次々変わるみたいな。みんな、犬山が嫌いだって言ってましたね。『どうやって仕返しをするか、相談している』と言うから、
『それはやめな、やられたらやり返す、ではきりがないから』って言ったんですけど」
さーさんは気分を変えるように
「いま時ねぇ、めずらしい先生ですね」
と言いました。私も
「まぁ、社会に出ればそういうことありますから、いい勉強」
と言いました。
まーさんは真剣に
「何言ってるの、子供は逃げられないんですよ。学校に行けば、どうしたって顔を合わせるんですから」
と言いました。
私は、はっとしました。
急に自分が逃げ場のない所にいて、怒られているように感じたのです。
1年生の時、金ちゃんは私に助けて欲しかったのです。
子供の苦しんでいる様子を見ていて平気な親はいません。
しかし、金ちゃんの話を聞いただけでは、決定的な理由が思いつきませんでした。
それに、もしかしたら金ちゃんが弱いから、他の子なら、やり過ごせるようなことも耐えられないのか。
それなら、金ちゃんが強くならなくてはいけないのではないか。
学校側もそう思うのではないか。
そんなことを思うと、学校に電話することが出来ませんでした。
そのとき本当は私自身が、いじめ、パワハラについてよく知らなかったのです。
そのことを言うと金ちゃんは、つらそうな顔をして、黙って下を向いていました。
〈自分がこんなに辛い思いをしているのに、何もしてくれない親なんだ〉と思っているようでした。
そして、金ちゃんは勇気を出して、いじめアンケートに実名で書いたのです。
その後、そのことで学校から何か聞かれるようなこともありませんでした。
そして犬山が収まったと聞いて、そのときは胸をなで下ろしていたのです。
2年生の冬になっていました。
日常生活の中で、少し語気を荒くすると、びくびくするので、どうしてこうなってしまったのか、私は自分を責めるような申し訳ない気持ちになりました。
そんなある日、近所に住む金ちゃんの2歳年上の幼なじみが私の夢の中に出てきて言いました。
「金ちゃんが、学校で殴られてるよ」
私は夢の中で金ちゃんが腹を殴られているのが見えました。数日前に
「金ちゃんの様子が変だ、いじめられてるんじゃないか」
と心配していたと聞いていました。
私は夢から目覚めて、やっとその深刻さと痛みを感じることができたのです。
しかし、金ちゃんに聞いてみても「それはない」と言います。
それから何日かして、金ちゃんの出ない合唱コンクールに私は行きました。
犬山先生がいました。
私はすれ違う時、犬山先生の腹に悪魔がいるのが見えたのです。
そして、確信したのです。
家に帰ると今日のことを金ちゃんに言いました。
「あいつはダメだ、腹に悪魔みたいのが見えた」
金ちゃんは深くうなずきました。金ちゃんを夢の中で殴っていたのは犬山先生だったのです。