『スモール イズ ビューティフル 再論』(E.F.シューマッハ 訳 酒井 懋、2000)
ほっといたらお前らだってそうなるんだぞ、ってスミマセン。誰か(私の中の)がそう言ってたもんで。
なぜこんなに生きるのがくるしいのでしょうか。
この本の中で気になった内容はこちら。
工業化が大都会を必要とした。
人々を集めて生活させれば、効率よく、生産性を高められる。
人々は効率性を高めていく。
しかし利益を受け取るのは資本家や企業で、それを作った人ではない。
効率化が進めれば、ロボット化していく。
人々を排除することになっていく。
家に帰れば椅子に座ってテレビを見るのが関の山だ。
平日は朝から晩まで働き週末になれば疲れて余暇を楽しむ気にはなれない。
これが豊かな生活とはいえない。
一方で1時的な消費する財は少ないが、永遠の財を求めて暮らす人々も多数いる。
人々が生活するのに必要なものは食料と燃料だ。
なぜ自分たちの地元でしか使わない車を遠い外国から輸入して使うのだ。
身の回りのもの、自分たちの地域に必要なものを自分たちが作り出す、それは標準化ではなく独自仕様のものになる。
西洋文明が失ってしまった生活を私たちはアジアで見ることができる(仏教)。
〈以下一部抜粋・要約〉
裕福に暮らす奴だけが楽しく生きられる--これが過去半世紀かそこら人類の耳に叩き込まれた厄介なメッセージである。
これが「開発」なるものの暗黙の前提、つまり、所得の増加が進歩の目安として役立つという前提なのである。
世界に占める一国の位置を示す最も簡潔で適切な指標は、一人当たりの平均所得であり、いっぽう主に賞賛されるのは、すでに達成された水準ではなくて、今の成長率である。
「裕福に暮らす奴だけが楽しく生きられる」という現代の前提は、人類の普遍的な伝統にもとる、粗雑な物質主義哲学から生まれている。
我々の物質的な「欲望」は際限がないかもしれないが、人間の必要物は限られていて、ごくわずかなものである。
人はパンだけで生きるわけではなく、「欲望」はいくら増長しても楽しい暮らしを与えてくれない。
貧困の文化には工業時代の到来する前に数知れない種類のあったことが知られているが、その特徴は、1つの基本的な区別--意識的なものが直感的なものかが問題でない--、「つかの間のもの」と「永遠の物」の区別にある。
両極端は簡単に判別できる。
一切れのパンのような消費財は「使い切られる」の想定しているが、モナリザのような芸術作品は永遠に存在することが「想定され」ている。
休日の旅客を運ぶ汽車・バスのサービスは使い切られるのを想定しているが、河に架かる橋は長く役立つ設備として造られる。
娯楽は1時のもの、教育(全的な意味での)は永遠のものとして予定されている。
つかの間の財とは--ビジネスの用語では--「減価する資産」であり、「償却」を要する。
一方、永遠の財は決して減価せず、「維持」される。
つかの間のものと永遠のものとの区別に妥当性があると知れば、原則として2つのタイプの「生活水準」を分けることができる。
2つの社会があって、生産の量と一人当たりの所得が同じでも、生活の質ないしは生活様式は基本的な、比較できないほどの違いを示す事はあり得る。
一方の社会は主たる力点をつかの間の満足に置き、他方は主に永遠の価値の創造に努めている。
前者にはつかの間の財が豊富にあるが、永遠の財は乏しく--不潔、醜悪でみすぼらしく、不健康な環境の中で、飲み、食い、娯楽にふける。
他方、後者ではつかの間の財では質素だが、永遠の財は豊富で、高尚な雰囲気の中で少量、簡素で健全な消費がおこなわれる。
私(チキハ)の感想です。
昔だったら農村を離れ都会に出て働き職を失えば農民に戻れました。恐慌が起こると人々を吸収するのが農村です。
しかし今は戻る場所がないのです。
大量のホームレスが都会にあふれます(スラム街がない国、日本は驚きだと聞いたことがあります)。
大きな農業が良いとされトラクターなどが入ります。
働く人は少なくて済むのです。
そんな社会が良いのかと筆者は問います。
もっと小さい集まり、村や町単位で人々が自給できる環境が良いのではないかといいます。
持続可能な社会という言葉をよく耳にするようになりました。
処女作『スモール イズ ビューティフル』(1977)でその哲学を語っています。
2020年、記録至上東京から転出する人が最大となりました。
豊かな国といわれる日本にいて、貧乏になぜなるのか。
社会と同調しようとする気持ちや、欲望をかき立てるようなメッセージにばかり目を奪われていたこともあると思います。
身の丈を知ることの大切さを知り、小さな社会について考えたいと思いました。