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地球の変わり目、それとも終わり?

『「AI資本主義」は人類を救えるか』(中谷巌、2018)

人工知能(AI)が人類の知能を超える日も近いです。
私よりも私のことをよく知っています(YouTubeとかアマゾンでおすすめに出てくる)。
データで解析をするから客観的にわかっています(精度はモノによりそうだ)。
だから、人工知能にすべてまかせてしまった方が良いのではないかという考えがあります。
ここで著者はある例えを出しています。
私たちは靴を履いて歩きます。
靴は自身で歩く事はできません。つまり私という足があって歩くことができるのです。
靴は脳であり、人工知能です。
私という意識は、脳より上にあります。人工知能を使うのは私たちの意識です。

<以下一部抜粋・要約>

 

ホモ・サピエンスはなぜ生き延びたのか
『サピエンス全史』において、ハラリは一つの大きな問いを掲げました。
それは、地球上に存在した様々なホモ(ヒト)属の中で、なぜホモ・サピエンスだけが今日まで生き延びることができたのか、という問いです。
彼によれば、ホモ・サピエンスが生き残ることができた最大の理由は、「認知革命」にあります。
具体的には、言語によるコミュニケーションのあり方の突然の変化です。
ハラリは、ホモ・サピエンスにとって驚くほど多くのことを可能にしたと言います。
例えば、身の回りの自然環境の危険についての詳細な情報をやり取りする。
あるいは、信頼できる人は誰かという人間に関する情報を伝え合う。
これにより、家族など親密な人たちだけではなく、より大きな集団による協力関係が築けるようになったのです。

 

虚構を語る力が協力を可能にした
ハラリによれば、これは単に実在する自然の脅威についての情報を共有し、それに対処できるようになったというレベルの変化ではありません。
認知革命で起きた最も重要な変化は、「全く存在しないものについての情報を伝達する能力」を得たことだと彼は主張します。

 

 伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。
 虚構のおかげで、私たちは単に物語を想像するだけではなく、集団でそう出来るよ

 うになった。

 

予定説と資本主義
現代において最も強力な想像上の虚構は何か。
それは「資本主義」です。
資本主義にも何か実体があるわけではありません。
それは想像上の概念として作り上げられたものですが、現代に生きる私たちは当たり前のようにそれを信じ、その考えに則って日常生活を送るのが当然だという状態になっています。

 

塗り替えられた「人間観」
近年、AIが人間の知性を凌駕するというシンギュラリティーの到来に夢を託す専門家が増えているようです。
その背景には、人間があまり頼りにならないという近年における「人間観の変化」があったからだと考えられます。
1976年、『利己的な遺伝子』というベストセラーを著したリチャード・ドーキンスは、生物進化の主体は生物個体ではなく、その個体に乗っかっている遺伝子だという主張をして世界を驚かせましたが、それは人間を始めとする生物の個体そのものには変化に適応する合理性があるわけではないという生物観です。
人間とは遺伝子の乗り物に過ぎない。
ドーキンスの著作に刺激されて、この30年ほどの間に、進化理論、認知症科学、行動経済学、脳科学、社会生物学などの分野での人間研究が驚異的に進みましたが、その結果、今や、人間が思っていたほど理性的でもなく合理的でもなく、またそもそも人間には自由意志などはないといった新たな人間観が確立しました。
しかし、ドーキンスが人間の自主的な意思決定能力を否定したわけではないという点には、注意しなければなりません。

 

 私たちには、私たちを生み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私た 

 ちを強化した利己的ミームにも反抗する力がある。

 

ここで出てくる「ミーム」とは、ドーキンスによれば、脳から脳へと伝わる文化的遺伝子の単位ですが、人間はその気になれば、利己的な遺伝子や利己的な自由ですら、育成し教育できると、彼は主張しているのです。
ハラリが予測した通り、AI資本主義の時代にはヒューマニズムや民主主義はデータイズムに座をを奪われ、本当に破壊してしまうのか。

 

第5章「排除」から「包摂」へ
ーー「日本的普遍」をいかに磨き上げるか

社会的包摂という考え方
外部を排除(搾取)することで利益を確保してきた資本主義社会。
しかし、排除すべき対象としての外部が徐々に消滅し始めた結果、産業革命以来今日まで200年余り続いた資本主義世界の成長に陰りが見えています。
そこで登場したのがAIを主役とするAI資本主義ですが、果たしてこのAI資本主義は世界経済を、あるいは人類を救うことができるのでしょうか。
その答えは、AIをどのように活用するかにかかっていると思われます。
「排除」に代わるものとして、本書で私が提示するキーワードは「包摂」です。
「データイズム」でもなく「排除の論理」でもない新たな哲学、それが「包摂」の論理です。
包摂(インクルージョン)という言葉は、「社会的包摂」などというフレーズとして近年耳にする機会が増えてきました。
社会的包摂とは、孤立した人や弱い立場にある人も含め、市民一人ひとりを社会の構成員として取り込み、支え合うという考え方のこと。
日本学術会議は「今こそ『包摂する社会』の基礎づくりを」と題した2014年の提言の中で、こう述べています。
 
 今後の日本において、「社会的包摂( Social Inclusion)」を社会政策の基本概念とし、

 すべての人が潜在的に有する能力をフルに発現できる社会(包摂する社会) を構築

 することが不可欠である。

 

ハイエクと明恵の「自主的秩序」
ハイエクの思想は端的に言えば、人間をめぐる世界には非常に複雑な相互作用があり、科学的なアルゴリズムによって分析し、設計できるものではないということです。
「世界はこう改革すべきだ」という設計主義的な発想ではなく、それぞれ個人としては能力に限界のある人間が、時間と共に作り上げてきた伝統・習慣・道徳や制度からなる「自生的秩序」の中で相互に影響を与えながら、自然発生してくる新たな秩序を、明恵上人のように「過剰なまでに肯定」し、少しずつ前進していくしかない。
これがハイエクの考え方であり、明恵上人の思想です。
「データイズム」が「ヒューマニズム」に取って変わるという憂鬱な議論を展開したのはハラリでしたが、そのハラリが『サピエンス全史』の最後でこう言っています。

 

 唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。
 私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとす

 ると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではく、

 「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。
 この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分に考えていな

 いのだろう。

 

結論は、私たち一人ひとりが事態の深刻さについて熟慮し、「私たちが何を望みたいのか?」という、誰もがこれまであまり深刻に考えてこなかった問いに適切な答えを用意できるようになることです。
これ以外に、人類を救う方法はないということです。
AI資本主義が「包摂」の思想を自らの情報システムの内に組み込むことに成功すれば、人類の未来は明るいと思います。

 

私(チキハ)の感想です。
Change of the earth or end?(適当に英語で言ってみて翻訳アプリで変換したのがタイトルの日本語です。優秀だ。私は英語が苦手です)。
搾取と排除の論理から包摂の論理へ、軸を移すことができるのでしょうか。
明治以降の日本はそれまでの日本と大きく変わってしまったという話を聞きます。
この本の中でも書かれています。
それまでの日本人は、草木と神仏と人間は共存しているという感覚があったようです。
平等の意識は日本には馴染みがあります。 
私は著者の言う包摂とは排除と反対の意味だととらえます。
包むという言葉から受けるイメージがそれを感覚的に理解させます。
東北の震災時に海外のジャーナリストが、「海辺に打ち上げられた残骸をどこからともなく人がやってきて片してしまった」と驚きをもって報じたという話を聞きました。
そんなエピソードにどこか懐かしさを覚えます。
「何を望むのか」ということを考えるってこと。
どう思いますか。
アッタマブッとぶのは私だけでは無いはず。
小さい子供の方がこれ、得意かもしれませんね。
何を望むのか、想像しました。
出来るだけゴロゴロしてる(設計主義的ではなく、自主的秩序である)。
みんながそうなるといいと思っているが、活活と生きる人がいてもいい(包摂の思想だ)。