ユタカ2イキルオテツダイ

ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

中央銀行が終わる日【仮想空間で動き回る多様な通貨たち】

『中央銀行が終わる日』(岩村充、2016)

日銀の金融政策には限界があります。

なぜならば銀行券に利子をつけることができないからです。

ここで解決策として取り上げられているのは、「仮想空間で動き回る多様な通貨たち」です。

その通貨には自由に利子がつけられます。

プラスにもマイナスにもできます。

それは必ずしも、中央銀行が発行する通貨である必要はなく、民間の銀行や、企業がそれぞれに発行できるとします。

人々は、自分の好きな通貨を選択して使用することが出来るようになります。

そのとき、中央銀行の役割はどうなるのでしょうか。

今回は長いですが、将来を考えるのにとても役に立つ内容です。

是非最後までお付き合いください。

<以下一部抜粋・要約>

 

かつてハイエクがいた

1970年代ハイエクの主張

彼がこの主張を展開した1970年代というのは、世界が高いインフレに悩んでいた、その最中です。

ハイエクは何よりも貨幣価値の持続的減価つまり世界的なインフレに対する根本的な処方箋として、貨幣に関する選択を人々に委ねることを提案していたわけです。人自身が通貨の選択を行うとしたら、わざわざ減価していくつまりインフレの進行している国の通貨を持つはずがない、それがハイエクの考えた当時の高インフレへの処方箋だったわけです。

でも、そう言うと、やや不思議な思いをする人もいるかもしれません。

貨幣の世界には、グレシャムの法則と呼ばれる有名な格言があるからです。

歴史の教科書などにでも、「悪貨は良貨を駆逐する」として教えられる格言ですから、知る人は多いでしょう。

しかし、ハイエクの意見は異なっています。

彼の議論の根底にあるのは「良貨が悪貨を駆逐する」という考え方でしょう。

政府が介入などしなくても、人々の自由な選択に任せておけば自然に良貨が残るはずだという主張だからです。

どちらが正しいのでしょうか。

実はどちらも正しいのです。

ただし、現実の中でどちらが正しくなるかは、人々が自身の使う通貨を「選択」することの自由を認めるかどうかにより決まります。

 

固定相場制から変動相場制へ

かつて固定相場制だった為替相場ですが、変動相場制になったのは1971年のニクソン・ショックとも呼ばれる米国の通貨政策の急展開です。

ハイエクの主張と実際に起こったことのこととの違いは、その競争プレイヤーたちが、いわゆる民間の銀行たち同士ではなく、政府あるいは中央銀行たち同士であったというに過ぎないのです。

世界のインフレは見事なまでに収束していったのです。

そして、これこそがハイエクの慧眼を示すものだと言ったらうなずいていただけるでしょうか。

でも、それは世界に別の問題を突きつけることにもなりました。

インフレなき世界が実現するとしばらくして、世界あるいは世界の中央銀行たちは、再びインフレが欲しくなったのです。

 

戻ってきた流動性の罠

財政政策の時代とその終わり

第二次大戦期の長い間、西側世界における経済政策運営の理論的な基礎となったのは、ケインジアンと呼ばれるようになっていたケインズの後継者たちが定式化した経済政策モデルでした。

そして、そのケインジアンたちがいわゆる景気対策という文脈で重視したのは、中央銀行の行う金融政策ではなく政府自体が裁量する財政政策の役割だったといえます。

それは、1930年代の世界大不況の経験、具体的には景気の悪化を食い止めるために金融を緩和して金利をどんどん引き下げていくと、ついには金利がゼロにまで下がり切ってしまって、もうそれ以上は金融緩和が効かなくなるという状況に行き着いたという経験があったからです。

ケインジアンたちは、この状況を「流動性の罠」と呼んで、そうした状況を解決するためには「流動性の罠」にかからない政策手段つまりは財政政策の起動的な運営が必要であると主張したのです。

しかし、そうした財政政策重視の経済政策運営はやがて行き詰まります。

それは、ケインジアン的な政策運営を行っていた国、とりわけ固定相場制時代の基軸通貨国であった米国で、スタグフレーションと呼ばれる現象が現れてしまったからです。

スタグフネーションつまり不況とインフレーションつまり持続的物価上昇とが同時に起こってしまうという現象のことです。

国際増発などによる景気刺激は確かに「直接、今日の支出を拡大する」という意味での即効性はあるのですが、それは遅かれ早かれ将来の財政負担となって戻ってきます。

要するに、財政による景気刺激というのは「将来の豊かさ」の前借りであり、現在と将来の交換に過ぎないのです。

それがわかってしまうと、財政による需要増を前にしても(例えば公共工事の拡大により潤っている企業が少なくないという新聞報道に接しても)、そこで先読みができる人は、こうした財政の「活躍」は財政赤字を累増させ、いずれは増税がやってくる。

そのときには財政の景気の足かせになりかねないという理由で、つい浮かれ気分になる自分を戒めようとするでしょう。

 

対立の時代の中央銀行

行き詰まる金融政策とゲゼルの魔法のオカネ

やや驚くデータかもしれませんが、西欧圏つまり西欧諸国に米国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドを加えた地域の経済が、一人当たりの豊かさという文脈での成長の時代に入ったのは、意外なほど新しいことでした。

西欧圏の諸国が本格的な経済成長を始めたのは、ナポレオン戦争の決着がついた19世紀初頭、具体的には1820年代あたりからのことだったのです。

そして、この時期は、現代の中央銀行たちのモデルになったとされる英国のイングランド銀行が、発券銀行から中央銀行へと「進化」し、やがて金融政策を付託されるようになる時期と重なります。

 

ゲゼルの発想から

20世紀の初頭にゲゼルと言う思想家がいたこと、その彼の議論の中に、貨幣にマイナスの金利をつけるという提案がある事は前書でも紹介しました。

ゲゼルが提案したのはスタンプ付き紙幣と呼ばれる方式です。

これは紙幣の保有者に保有期間に応じた枚数のスタンプを購入させ、そのスタンプを貼り付けておかなければ貨幣としての価値が維持できないと定めておくという仕組みです。

例えば、1週間が経過するたびに表示額の1000分の1に相当する金額のスタンプが必要であると定めるとすれば、紙幣の価値を維持するのに必要なスタンプの総額は1年間で券面の5.2%になりますから、その分だけのマイナス金利を貨幣に伏すのと同じことになります。

ここまでお付き合いいただいた読者には自明なことかもしれませんが、貨幣にマイナスの金利がつくことは、金融政策を「流動性の罠」の制約から解放することを意味します。

金融緩和を重ねて名目金利がゼロに行き着いた状況、すなわち「流動性の罠」の状況に対して、現在の中央銀行ができることは、思いきり金融を緩和して遠い将来の緩和効果までも現在に借りてくることか(いわゆる「時間軸政策」です)、人々の心に直接的に働きかけて、将来の物価上昇率に対する予想を変更してもらうことぐらいしかありません(いわゆる「インフレターゲット」です)。

しかし、もし銀行間にマイナスの金利を付すことができたら話は全く変わってきます。

金融政策には上方にも下方にも限界を画されることがなくなり、経済に大きなデフレ圧力が生じたときでも、ずっと強力に事態に対処することができるようになるはずです。

 

銀行券の価値はどこから

日本銀行のバランスシートで目を引くのは、何といっても資産に占める国債の大きさでしょう。

国債が日本銀行の総資産に占める比率は、なんと8割を超えてしまっています。

中央銀行とは、銀行券あるいは銀行券へといつでも交換できる預金を世の中に提供し、その代わりに国債や社債などの金融資産を銀行に入れて保管している社会的装置のようなものです。

別の例えもできます。

中央銀行のやっていることは、投資信託のようなものだと考えたらどうでしょう。投資信託とは、顧客に代わって株式等の資産を購入し顧客に受益証券を渡す仕組みです。

中央銀行は、利子や配当がつかない代わりに決済機能に特化した証券である銀行券を、世に提供しているのだと考えるわけです。

要するに、現代の銀行間の信用と、その中央銀行を作った政府の信用とは、中央銀行の保有資産を通じて「つながって」しまっていると考えるわけです。

こうした考え方を「物価水準の財政理論」といいます。

当たり前の話ですが、中央銀行というのは、楽をして「儲かる」仕組みという面があります。

決済に使えるからという理由で利子をつけなくても人々が財布に収めてくれている銀行券を発行し、その代わりに持っているだけで利子がついてくる国債や社債を自分の金庫に入れておけば、それは儲かるのが当たり前だからです。

こうした文脈で生じる中央銀行の「儲け」のことを「シニョレッジ」というのですが、そこで大事なことは、このシニョレッジは、基本的に政府のものになるということです。

 

中央銀行は終わるのだろうか

私はこの数年というもの、あまり遠くないうちに「中央銀行が終わる日」が来てしまうのではないか、そういう懸念を抱き続けていました。

バブル崩壊後の日本、リーマンショック後の米国そして欧州、そうした国々の中央銀行たちが陥った状況を見ると、それが彼らの決定の誤りや政策の失敗によるものとは思えなくなっていたからです。

誤りや失敗であれば、それを犯しても組織や制度が変わる事はありません。

誤りや失敗は直せばよいのです。

しかし、誤りでも失敗でもないのに機能が不全に陥っていくのであれば、仕組みそのものを考え直さなければなりません。

中央銀行は終わるのではないか、そうした疑いあるいは懸念を持つようになったのはそれが理由です。

もっとも、金融政策が機能不全に陥った直接の原因は明らかだとも思っていました。

原因は「流動性の罠」です。

金利ゼロの金融資産である銀行間が存在する限り、金利はゼロ以下になることができません。

ですから、金融機関はインフレ対策には向いているが、デフレ対策には限界があるわけです。

ただ、向いているかどうかということと、何もできないかということは違います。経済全体に成長の潜在力があるときになら、金融政策は何もできないわけではありません。

かつての日銀の「時間軸政策」、今の日銀の「異次元緩和」、米国連邦準備制度の「量的緩和」、当事者たちがどう意識しているか分かりませんが、横から見れば、そうした政策とは要するに将来からの「政策効果借り入れ」を狙ったものと評価できるでしょう。

問題は、そこまでの将来の豊かさが私たちに残されているかどうかなのです。

日本は厳しいと思います。

欧州も同じでしょう。

何とかなる可能性がありそうなのは米国で、これは人口ピラミッド比較を見れば、まあ自明に入ると思います。

米国の金融政策では「出口」の議論ができるのに日本ができないのは、日銀が怠けているとか下心があるのを隠しているとかによるのではなく、本当にできないのではないかと私は思っています。

しぶといデフレを上手に逆転させて緩やかなインフレに移行させたいというのが「出口」の議論の核心であるとしたら、それは米国の人口胴体を前提にすればかけないシナリオでもないでしょう。

でも、日本ではよほどの幸運に恵まれなければ描けないシナリオなのです。

日本について描けるのは貨幣価値の部分崩壊に近いほどの突然の物価のジャンプアップが来て、その後にまたしぶといデフレが戻ってくる、そういうシナリオだけになってしまうのではないか、そのように思えてならないのです。

そんなシナリオが実現してしまったら、中央銀行は終わってしまうかもしれません。

金融政策というのは、現在の豊かさと将来の豊かさを国民経済全体として交換する政策でしかありません。

ですから、かつての成長の時代にあったような将来の豊かさへの予感がその消失してしまったら、金融政策はその役割を果たしようもないのです。

もっとも、そうしたサイクルの中にあっても、せめて最悪の循環相に陥るのを和らげることぐらいはできます。

その方法は銀行券に利子をつけることです。

ただ、そこでの問題は、いくら中央銀行が「ゲゼルの魔法のオカネ」を作り出しても、それをデジタル系の技術から作り出す限り、その魔法のオカネが自由かつ効率よく飛びまわる空間がなかなか見つからなかったことです。

しかし、その事情はビットコインの出現で変わりつつあります。

私は中央銀行たちの円やドルがビットコインたちと華々しく競争して負けるというシナリオはまずないだろうと思っています。

理由は、円やドルのような信用貨幣の方が、ビットコインたちのようなPOW貨幣よりも早くはるかに安く、地球資源に負担をかけずに作り出せるからです。

ですから、中央銀行の姿が未来の貨幣の世界にいない、消えてしまうということが起こるとすれば、それはビットコインたちに負けるのではなく、時にフィンテックなどという言葉で表現される民間企業や銀行たちによる世界的な決済サービス開発競争の中で、中央銀行たちが自らのいるべき場所を見出せない時に起こることだろうと思うのです。

さあ、そうすると、新しいハイエクの世界で、中央銀行たちにどんな役割が残ることになるでしょうか。

 

やがて天秤座のように

私は「役割は残る」と思っています。

残るのは、安定した「価値尺度」を提供するという役割です。

正確に言えば、誰もが安定した価値尺度だと認めるような分析と方法論を持って貨幣利子率を決定し、その利子率のデジタル銀行券を世に提供し続けることです。

ハイエクの描くところの通貨間競争の世界とは、民間の銀行が各々の通貨単位を自ら決め、その単位で銀行間を競って発行する世界です。

その競争を動機付けているのは各発券銀行の企業利益追求です。

しかし、だからといって競争というルールだけで未来の貨幣の世界の全部をデザインするわけにはいかないだろうと私は考えています。

貨幣には「決済手段」と「価値保蔵手段」そして「価値尺度」としての役割があると言われます。

この文脈から議論すれば、ハイエクの発想は貨幣の「価値保蔵手段」としての役割に目をつけたものと整理しても良いでしょう。

そして、私たちが考えた「ゲゼルの魔法のオカネ」を仮想空間の世界に提供するということは、「決済手段」と「価値保存手段」としての貨幣を提供する役割を中央銀行の独占から取り上げて競争に伏すことを意味します。

これは、未来の貨幣制度として優れたデザインのはずです。

ただ、それだけで貨幣が提供すべき役割の全てが揃うわけではありません。

それだけでは、「価値尺度」としての貨幣が良く維持できるとは限らないからです。

通貨の発行を民間銀行による競争に委ねたとしても、そこには様々な外的なショックがやってきます。

災害もあるでしょうし政治の不安定もあるでしょう。

思いもよらぬ技術進歩ということもあるかもしれません。

そうした不確実な世界の中で、貨幣の外の世界から来るショックをできる限り柔らかく受け止めることを是とする発券銀行はあっても良いし、また少なくとも一つはあるべきだと私は思います。

 

おわりに

現代を語る本を作っていて悩ましいのは、ようやくの思いで原稿を書き上げ、出版社に送って構成を待っているうちに情勢が動いてしまうことである。

2016年の1月末になって、日銀がいわゆる「追加緩和」の目玉として、市中銀行から受け入れられる当座預金に0.1パーセントのマイナス金利を伏すとのニュースが飛び込んできた。

今回の日銀の決定にサプライズの要素があるとすれば、それは日銀が採用したマイナス金利というものの内容と背景のほうにある。

そこに筆者は違和感を覚えるのだ。

異次元のマイナス金利というのは、この政策の採用以前に預入れられていた資金実績に対してはプラス0.1パーセントという金利をそのまま残し、そうした実績を超えて新たに預入される資金についてだけ金利をマイナスにするというものである。

大規模な量的緩和とマイナス金利とは、そう簡単には共存できないのである。

マイナスの金利といっても、その大きさ小数点以下の数パーセント程度が限界、対象の預金も異次元緩和が作り出したほどの量を相手にするのはやめた方が良い、無理してつき進めば、その先には「流動性の罠」が待っているというのが、この文脈での「落ち」ということになる。

行き詰まった通過システムの未来を本気で切り開きたいのなら、預かり金にマイナスの金利を付しますなどという小手先の手段ではなく、銀行券そのものに金利を付すこと、マイナスにもプラスにも金利を付すこと、それができるようにする方法を考えた方が良いはずなのだ。

そして、それは、通貨の未来を考えようとした本書で、あえて「ゲゼルの魔法のオカネ」を検討の軸に据えた理由でもある。

 

私(チキハ)の感想です。

とても面白かったです。

将来的にはこちらの方向に進んでいくのだろうと思いました。

 

POW貨幣とは何ですか

マイナーに報酬が支払われる理由が「POW/プルーフ・オブ・ワーク(作業証明)」である貨幣。