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武士道【戦闘のない時代の戦士階級の掟】

『新渡戸稲造 武士道』(山本博文、2012)

私がこの本を読もうと思ったのは、金融の本の中で、外国人は「日本に神秘的なものを感じている」という記述を読んだからです。

それらの中で「腹切り、サムライ、盆栽、お茶、アニメ、テクノロジー」などがあることがわかりました。

私がムズムズしたのは、サムライをよくは知らない、ということでした。

断片的なエピソードなど少しは知っていましたが、外国人を納得させるほど上手くは出来ないと思いました。

ルーズベルト大統領も愛読したと言われる『武士道』を読めば、外国人のイメージするサムライ像がわかるかも知れないと思いました。

<以下一部抜粋・要約>

 

武士道とは「高貴な身分に伴う義務」

『武士道』初版の「序」は、ド・ラブレー教授をベルギーのリエージュに尋ねた際の、こんなエピソードから書き始められています。

二人で散歩していて、会話が宗教の話題に及んだ。

「日本の学校では宗教教育がない、ということですか」と、尊敬する老教授は尋ねた。

私がそうですと答えると、教授は驚いて足を止め、容易には忘れがたい口調で、「宗教がない!道徳教育はどうやって授けられるのですか」と繰り返した。

ド・ラブレーのこの質問に新渡戸は逆にびっくりし、即答できませんでした。

確かに自分が少年時代に学んだ道徳上の戒めは、学校で教わったものではない。

では、何から学んだのだろう?

こう自問した新渡戸は、その後、おそらく長い時間をかけてこの問題について考え、次のような結論に達します。

 

私は、自分の正邪善悪の観念を形作る様々な要素を分析してみて、それらの観念を私に吹き込んだのは「武士道」であったとようやく気づいた。

 

戦闘のない時代の武士像

他者を尊重してその気持ちを思いやり、いつも謙譲の態度で接し、対立をできるだけ避けようとする人間です。

意外なことに、いわゆる戦闘者としての武士のイメージとはまるで正反対ですが、実はこれが戦闘というもののない江戸時代に生きる武士の実際の姿だったのです。

 

「恥」を恐れる心

江戸時代の武士にとって、まず最上位に置かれる徳目(価値)が「名誉」であり、命よりも大切なものであることは、すでに何度も述べました。

 

『武士道』の要点

[定義]

武士道とは、「戦士がその職業や日常生活において守るべき戦士の掟であり、一言で言えば、「戦士階級における『ノブレス・オブリージュ[高貴な身分に伴う義務]』」のこと。

すなわち、武士が支配階級にあるものとしての責任を自覚した上で、身につけ守らなければならない教え、それが武士道である。

 

[武士道の源泉と成立]

武士道は、「生に執着せず、死に親しむ心をもたらす仏教」と「忠・孝、祖先崇拝を説く神道」、そして「人の持つべき基本的な道徳を要請する儒教」の三つを源泉として、封建制の時代に入った源頼朝の時代(16世紀末)に成立した。

 

[武士が身に付け守るべき教え(徳目)と構造]

  • 卑怯や不正を憎む心性、すなわち「義(=正義)」
  • 正しいことのために行為をなすこと、すなわち「勇(=勇気)」
  • 弱者、劣者、敗者に対する思いやり、すなわち「仁」
  • 他人の気持ちを思いやり、社会的地位に敬意を払うこと、すなわち「礼」
  • 嘘やごまかしをすることなく、口に出したことは命にかけても守る心構え、すなわち「信(誠)」
  • 人格の尊厳と価値についての積極的な自覚、すなわち「名誉」
  • 目上のものに対する服従と忠実、すなわち「忠(忠義)」
  • 単なる知識はではない叡智、すなわち「智」

 

[克己]

日本人は、武士道の「勇」の徳により、物も言わずに苦痛に耐える忍耐力をつけ、「礼」の徳により、相手を思いやり、自らの感情をあらわにしない態度を身に付けた。

両者が結合してストイックな気質を生んだ。

 

[切腹]

切腹は法律上、で礼法上の制度であり、武士が罪をつぐない、過ちをわび、恥を逃れ、友を救い、自己の誠実を証明する行為である。

処罰として強制される場合は、荘重が儀式をもって執行された。

切腹は克己(こっき)の極地であり、強い精神力なくしては成しえないため、武士の身分にふさわしいものとされ、「名誉」とされた。

 

[敵討]

復讐は、人間が持って生まれた正確な平衡感覚と平等な正義感の発露である。

常識は、通常の法によっては裁けないような事件を訴えさせるため、武士道に、ある種の倫理的平衡感覚を保つための裁判所として、敵討の制度を与えた。

 

[刀]

刀は、武士の身分と武勇の標章であり、忠義と名誉の象徴である。

しかし武士道は、刀の乱用を戒め、嫌悪をした。

必要もないのに刀を振るうものは卑怯ものであり、虚勢を張るものとされた。

刀を用いるべき時は稀にしかなかった。

 

ーーこのほか、ここまでではあまり触れなかった、興味深い指摘をいくつかあげておきましょう。

第10章「武士の教育」では、「武士の教育で重視された第一の点は、人格の形成であり、思慮、知識、弁舌などの技術的な才能は軽視された」こと、学問は武士の活動の範囲外にあり、「武士は、その職分に関係ある限りで、学問を利用した」こと、そしてとりわけ経済については、「武士道は経済とは正反対のものである。/武士は、金銭そのもの、ーー金を儲け、金を蓄える術をいやしんだ」ことが強調されています。

 

面目と名誉を重んずる国民

新渡戸は、日本人の美徳はすべて、もともとは武士道の道徳の中にしかなかったと考えていました。

それが、時とともに民衆に感化を及ぼしたと言うのです。

 

武士道の美徳は、わが国の国民の一般的水準よりもはるかに高いものだった。

太陽が昇る時、まず最も高い峰を朱に染め、次第に下の谷々を照らすように、最初に武士道として結実した倫理体系は、時が経つにつれて大衆からの追随者を呼び込んだ。

 

けれども、彼のあげている美徳は、必ずしも武士道に発するものだけではありません。

例えば、戦国時代から安土桃山時代(16世紀後半)に日本にやってきたイエズス会の宣教師たちはほぼ一様に、日本人の名誉心の強さに強い印象を受けています。

 

彼ら日本人は親しみやすく、一応に善良で、悪意がありません。

驚くほど名誉心の強い人々で、他の何物よりも名誉を重んじます。

大部分の人々は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉とは思っていません。

日本人は侮辱されたり、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人々ではありません。(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』)

 

日本人は、全世界で最も面目と名誉を重んじる国民であると思われる。

すなわち、彼らは侮蔑的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない。

したがって、最も下級の職人や農夫と語る時でもわれらは礼節を尽くさねばならない。

さもなくば、彼らはその無礼な言葉を耐え忍ぶことができず、その職から得られる収入にもかかわらず、その職を放棄するか、さらに不利であっても別の職についてしまう。(ヴァリニャーノ『日本巡察記』)

 

日本文化論の嚆矢として

こうしてみると、新渡戸の『武士道』は、武士道を解説した書物というよりも、日本文化論の嚆矢(こうし)として受け取るべきだと考えられます。

これは武士道書というより、日本的思考の枠組みを外国人に示した優れた日本文化論なのです

 

こうして武士道は、次のような行で閉じられていきます。

 

武士道は、独立した倫理の掟としては消えるかもしれない。

しかし、その力は、この地上から滅び去ることはないだろう。

武人の勇気や名誉の教訓は、破壊されるかもしれない。

しかし、その光と影は、その廃墟を越えて長く生き延びるだろう。

その象徴とする花のように、四方からの風に散ったあともなお、人生を豊かにするその香りで、人類を祝福するだろう。

 

私(チキハ)の感想です。

私は日本人との対人関係においての難しさを覚えることが多々ありました。

その謎が解けたように思いました。

例えば、道を歩いている人のリュックサックがのファスナーが閉じられておらずベロンと開けっ放しになっていたので、親切心にそのことを指摘したとき、感謝されるのかと思いきや、睨み付けられたようなとき。

親の失態は、どんなに遠回しに話してもダメなとき。

人前で恥をかかされたら、決して許さないとき。

これは、本文の中で紹介されていた、「武士の肩にノミがついているのを指摘した人が斬り殺された」という箇所で妙に納得してしまいました。

「面目と名誉」なるほどなあ。

イギリスでは、日本語を学ぶ人が増えているそうです。

日本のフェスが大反響 

https://youtu.be/pFEi-tNMY_k

「サムライ」=「武士」は、武士道を通して、海外に紹介された日本人の理想像と著者は言います。

私たちは、知らず知らずこの地で培われた思想の枠組みの中で生きているのですね。

『武士道』の最後には、これからはグローバルなキリスト教の「愛」がキーワードであると結ばれています。

皆さん「隣人を愛せよ!」の愛ですよ。

「大和魂・桜花」に愛を加えて、うーん、かっこいい。