『二宮金次郎』(二宮康裕、2013)
Twitterを見ていたら、岸田内閣の総合経済対策について、「そうじゃないやろ、減税やろ、せやろがい」と説得力のあることを言っていました。
せやろがい@九州ツアー中 on Twitter: "総合経済対策29.1兆円の使い道について アンパンマンワールドに置き換えてみた https://t.co/1grM5fN1Dn" / Twitter
二宮金次郎の改革は今の時代に、とても役に立つと思います。
地方の首長で、こういう改革をする人が出てこないかなと思っています。
<以下一部抜粋・要約>
民が優先する
君ありて、のちに君あるにあらず、民ありて、のちに君おこる。
【現代誤訳】君(藩主)が先に存在して、その君の豊かな生活を支えるために民が存在しているのではありません。
広汎な民の存在があってこそ、君は存在を保てるのです。
金次郎の思想を決定づける一言ですが、ほとんど知られていません。
この言葉を記したのは天保5年(1834年)頃と考えられています。
ちょうど天保の大飢饉の最中であり、民の困窮は目に余るものがありました。
特に農民は、日々の食さえ欠くありさまでした。
一方、藩主をはじめとした支配者側は、飢える人々に十分な配慮を示さないばかりか、贅沢な暮らしを変えようとはしませんでした。
そんな中で金次郎が発したこの言葉は、民が藩主優先する論理であり、広く農民から支持を受けたのみならず、心ある武士の支持も得ました。
藩主の中にさえ、理解を示す人たちがいたのです。
金次郎のこのような民優先の思想は、明治政府にとって不都合なものでした。
こうして、民を優先する金次郎の思想は明治政府に無視され、「国定修身教科書」に採用されることはありませんでした。
つまり、金次郎の人生・思想は1部分のみが政府に採用され、「金次郎の銅像」に見られるような、「薪を背負いながら本を読む姿」が定着します。
この「子供の金次郎」は農民統治のために使われるようになりますが、決して「大人の金次郎」が話題にされることはなかったのです。
民が富めば国家が潤う
天下国家を富ましめんと欲するものは、まず天下国家の財宝万物を、天下に住する庶民の勤行にこの金を与う。
【現代語訳】天下国家を豊かにしたいと望むものが、最初になすべきことは、天下国家が所有する金銀財宝を庶民の日々の勤労や特別な功労に対して報いるのに使うべきです。
江戸時代の後半、幕藩体制は貨幣経済の発展や奢侈な生活から財政の危機に瀕し、幕府や藩だけでなく、日本全体が苦境にありました。
この苦境を脱するためにどうするべきか。
ここでの問題は、いうまでもなく、国家財政の再建が先か、民の富裕を実現するのが先かの問題です。
そしてこの問題こそ、現代の課題でもあります。
金次郎は烏山藩で次のような施策を行っています。
お救い小屋など緊急の飢民対策のほかに、農閑期の失業対策的な施策を講じました。
農民を荒地開発事業に従事させ、賃銭を与え、日常生活を保障しようと考えました。
具体的には、田畑の開発料として1反歩につき1両1部を貸与しました。
財政難だからといって、増税や節約を強いるのではなく、民に目的を持った金銭を貸与し、労働意欲を持たせたのです。
負債があっては立ち直れない
御上御借財ある時は、民困窮するは天命と存じ、なかなか人力の及ぶところにあらず。
【現代語訳】幕府・藩など領主側に多額の借財があるときには、結果として民が困窮するのは宿命であって、容易なことでは人智の解決するところにはなりません。
江戸時代後期、幕藩体制は借財の山を築き、いかんともしがたい状況になっていました。
貨幣経済の浸透は、富を商人に集中させ、米依存の経済から脱却できない武士と農民は困窮に陥り、商人との差は顕著なものとなりました。
五代将軍綱吉は貨幣の改鋳を行い、幕府の財政は一時的に立ち直りますが、その後、インフレになり、物価高に苦しむ庶民の抵抗が強まります。
結局、新井白石らによって貨幣の質は元に戻され、この政策は頓挫しますが、民の困窮は止まりませんでした。
以後、商業を抑える政策が考案されたり、八代将軍吉宗の頃には、新田の開発が大規模に行われたりしましたが、根本的に幕府を立て直す案はなく、承認には御用金の納入を迫ったり、武士には禄借り上げ(減俸策)や面扶持(家族数に応じて扶持米給付)を行い、耐久を強いました。
農民には、先納(来年の税を前年に収める)や、ひどいときには先々納を求めたり、その他各種の税を課しました。
結局、幕藩体制には、多額の借財を弁済する方策が見出せなかったのです。
それでは、金次郎が関与した諸藩などの改革は、いかなる思想のもとに、どのような解決が図られたのでしょうか。
金次郎が改革に携わった諸藩の中で、最も借財に苦しんだのは、谷田部藩でした。
石高は1万6,000石なのに、天保5年には借財は13万3,000両余もありました。
金次郎は、財政改革を引き受けるにあたり、「荒地域開発、その米麦を持って、窮民を救い、全領民を救い候わば……」と条件をつけました。
農民救済を優先しない限り改革は引き受けないという、いわば「安民・富国論」を提言したのです。
しかし谷田部藩の場合、まず多額の借財を処理しなければなりませんでしたから、やむなく金次郎は具体案を提示しました。
谷田部藩の平均税収が5.167両ですから、経常支出を3.381両に抑え、残額を借財返済に回す、収納が平均収納額を上回った場合には荒地開墾に投資するという案です。
金次郎は、あくまで藩主側に節約を求めたのです。
そして、この改革案を本家である、熊本の細川藩に説明させました。
熊本細川藩は、多額の借財に半ばあきれていましたが、具体案が示されたことによって、谷田部藩に対する債権6万両あまりを免除しました。
細川藩のこの政策は影響下の証人に波及して、結局、総額8万5,000両あまりが免除されました。
残りの負債は、高利のものは短期返済、低利のものは無利子のものに借り換えて、長期返済としました。
こうして、困窮のどん底にあった谷田部藩は、収入のうちで支出をまかなう「分度」を伴った「報徳仕法」を採用することによって、借財地獄から救済されました。
私(チキハ)の感想です。
金次郎は貧しい農家の出身。
10代の頃に両親をなくした。
20代前半には、米商人との売買を通して商いの知識を身に付けた。
そして25歳になった時、最初は、藩士の川島家に武家奉公する。
その頃の収入は、中間(武士の下働き)としての給金、小作料、自作米の売却益、利子収入など多岐にわたっている。
また薪の販売も始めている。
若くして金を稼ぐ力があったのですね。
苦労して学問していた、そういった印象だったのですが、それだけではなかったですね。
一方、城下へ移転すると同時に、急速に学問に傾斜していく。
金次郎は小田原藩の分家で、桜町領の財政再建・村落復興を命じられる。
桜町領の改革は最終的には成功をおさめるが、その過程でいろいろ問題が起こる。
私はここが一番面白いと思いました。
改革は小田原藩主から委任されたこともあって、金次郎は知らず知らずのうちに藩主に対して成果を示したいという気持ちになっていた。
これを役所の同僚や、農民に見透かされてしまう。
農家出身であることを理由にいじめにもあう。
金次郎は行方をくらましてしまう。
逃げちゃった。
金次郎にもそんなときがあったんですね。
でもその先が、やはり非凡です。
成田山にこもって、思想が大きく発展するのです。
そして、その結果、それまでの「半円観」自己中心的な見方・考え方を脱し、「一円観」(彼我を公平に認識する見方・考え方)に到達した。
換言すれば、自己を捨象することが可能になった。
やっぱり、偉人でした。
自己を捨象するって、どういうことでしょう。
抽象は、いろいろなすがたの側面を取り出すことで、そのときに捨てられたものが捨象というようだけど。
苦しみから抜けるにはこういった意識改革が個人の中に起こるのですね。