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ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

くじ引きで政治家を決めたらどうでしょう

『古代ギリシャの民主制』(橋場 弦、2022)

<以下一部抜粋・要約>

はじめに

「生きるもの」としての民主制

順繰りに支配し、支配されること。

哲学者アリストテレスは、民主制をこのように表現した。

古代ギリシア人は2500年もの昔に、民主制という政治のスタイルを発見した。

国家の意思は全体集会の多数決で決め、任期1年の役人をくじ引きで選んだ。

平民たちは支配者と被支配者の役目を、本当に順ぐりに努めたのである。

さて、私たちもまた、民主主義の世の中に生きている。

だが、自分たちが順ぐりに支配者の地位についているなどとは、夢にも思わないであろう。

国政選挙で投票するときでさえ、いわゆる主権者としての自覚は薄い。

それは、私たちにとってのデモクラシーが、何より「民主主義」という理念だからである。

それに対し、ギリシア人にとってのデモクラティアとは、理念である前に、すでにそこにある生活であった。

 

おわりにーー古代から現代へ

 

歴史浅い近代民主主義

私たちが生きている近代民主主義の歴史は、存外と底の浅いものといえないだろうか。

私たちは学校教育で、イギリス中世のマグナ・カルタから始まり、権利の章典、啓蒙思想、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言から普通選挙、といった進歩の過程として、近代民主主義の政治の歩みを教わる。

しかしそれは、現在から過去をかえりみることで得られた、いわば後智惠の歴史観である。

民主制は、実際には非難と攻撃をこうむってきた歴史のほうがはるかに長い。

財産や性別を問わず、成年に達したすべての国民に平等な参政権が憲法で保障されたのは、1919年のワイマール憲法が最初であり、1946年の日本国憲法がそれに続く。

男女ともに平等な完全普通選挙を定めたワイマール憲法から数えるならば、私たちの民主制は、誕生してからたかだか100年しか経っていないことになる。

他方、クレイステネスの改革に始まるアテナイ民主制は、マケドニア軍に廃止された前322年まで185年間、スラに占領された前86年まで数えれば実に421年間、命脈を保った。

 

代表制の起原

近代民主主義の基本原理は、代表制(代議制)である。

しかし、占拠された特定の1人が大勢の人々の利益を「代表する」という考え方自体、そもそも古代のデモクラティックには存在しなかった。

多数者の利益を「代表する」と称する人物が現れれば、その人に権威や権力が集中することは避けられない。

古典古代アテナイ人がもし今日の議会政治を目にしたならば、それを民主制ではなく、極端な寡頭制とみなすであろう。

彼らにとって統治の主体とは代議士ではなく、市民自身だったからである。

 

分かちあう政治

近代民主主義の基本が「代表する」ことにあるならば、古代民主政の基本とは何か。

それは「あずかる」、あるいは「分かちあう」ことであると私は思う。

ギリシア人は政治に参加することを、国政に「あずかる」と表現した。

この後は「分かちあう」とも訳すことができ、大きな全体の1部、例えば獲物の分け前などに、皆があずかるときに使われる。

市民にとって政治参加とは、ポリスの公共性という大きな全体に、一人一人が平等にあずかることを意味した。

参政権・市民権というものは、いわば大きな全体と考えられていて、めいめいの市民がその分け前にあずかる、というふうに理解されていた。

参政権を個人の権利と考える近代的発想と、その点で根本的にちがう。

兵役や財政の負担も、(個々の市民の能力に応じて)公平に「分かち合う」ものであった。

祭祀もまた市民たちが分かちあう大事な営みであった。

アゴラの掲示板で公共の出来事を告知し、碑文や公文書館で過去の記録を公開したのも、市民が情報を広く分かち合うためであった。

生活を「分かちあう」ことは、包摂と統合にもつながった。

「嫌いな人々と共生する技術」でもあった民主制は、己を倒した30人政権の1派とさえ和解する道を必死で探った。

目標としたのは分断や排除ではなく、統合と共存であった。

「分かちあう」は、古代民主制を理解するためのキーワードである。

 

ギリシア人と私たち

21世紀に入ると、いわゆるポストコロニアリズムの影響下、民主主義を最初に発明したのは古代ギリシア人ではない、という議論が、以前にも増して目につくようになった。

住民が集会での熟議によって意思を決定するという政治スタイルは、古代のエジプトやメソポタミア、インド、中国など世界各地に古来から見られるもので、民主主義を古代ギリシャだけの遺産と考えるのは、西欧中心主義的な偏見であるという主張である。

言われてみれば、日本中世にも惣村の自治組織というものがあって、村の集会で熟議がはかられていたことはよく知られている。

また民族学者の宮本常一が指摘したように、西日本の村落共同体には、成員の平等を原則とした「寄り合い」という集会の伝統があり、戦後の農地改革の問題などを何日もかけて話し合いながら解決したという。

しかし、ではこれらの集会を民主制と呼べるかというと、それはまた別の問題である。

民主制とは、単なる集団的意思決定のことだけではないからである。

でもクラティアという語が「民衆の権力」を意味することから明らかなように、古代ギリシャでは民会が意思決定をするのみならず、その決定を実行するために、市民たち自らが権力を行使した。

市民団自身が権力者であり、少なくとも理念上は、王や領主やGHQのような上位の権力があってはならなかった。

これはやはり他の古代文明にはない、古代ギリシャに固有の特徴である。

何よりギリシア人は、民主制が君主制や貴族制とは異なる独自の生態であることをよく自覚し、それがなぜほかよりも優れているのか、どこが違うのかというテーマをめぐり、盛んに私的な議論を交わした。

彼らが民主制というものを意識化、制度化し、それについて豊かなテクストを古典として後世に遺した世界的な意義は大きい。

 

民主制の生命

プラトンは、国家を船に例えた。

そして統治の専門技術を知らぬ素人の民衆に国の舵取りを委ねる民主制が、いかに危険で不合理かを説いた。

統治は専門家のエリートにまかせればよい、と彼は信じた。

選挙の投票率は低迷し、政治には一般国民の手が届かぬものという諦めが漂う一方で、ポピュリズムや合憲政治が幅をきかせるようになった現代の世界に、プラトンと同じ信念を抱く人々がいたとしても、おかしくはない。

「反民主主義の伝統」は、決して過去のものではない。

しかしここで私は、ふたたび碩学フィンリーの言葉を借りたい。

彼はプラトンのエリート主義に対し、アテナイの民衆を代弁してこう反論する。

無論専門家は必要だ。

船を雇うときには、私も船長に操船をまかせるだろう。

だが、行き先を決めるのは私だ。

船長ではない。

私たちの将来を決めるのは、私たちであって、政治家ではない。

マッカーシズムの「赤狩り」て祖国アメリカを追われた過去のあるフィンリーは、「ファシズムとの戦い」に勝利したはずの現代民主政治が、実は政党や官僚のような専門家集団に牛耳られる偽物だと訴えたかったのだ。

彼の言葉が心を打つのは、民主制の生命を、まっすぐに言い当てているからである。

個人であれ集団であれ、自分の生き方を自分の意思で決めるということは、かけがえのない価値がある。

そのことに、早くから気づいたのがギリシア人であった。

彼らがエレウテリア(自由)と名付けたその価値は、今も色あせることがない。

 

私(チキハ)の感想です。

プラトンは、衆愚に国政が出来るものか、と思っていました。

しかし、その民衆が民主政治を行っていたのです。

そこに至るまでには、貴族制であったり、君主制であったりします。

私が印象的だったのは、くじ引きで選ばれた人が政治をあずかるとき、名誉なことと思っていたことです。

日ごろから、政治について熱意を持っています。

自分の息子を戦地に送り込むのか、皆真剣な1票です。

現代の私たちの船はどこに行こうとしているのでしょう。

それを決めるのは自分自身なのだ、その自覚は、教育されていない。

私たちは、おとなしく従うことが社会性なのだと、思わされてきたように思います。

近代の民主制が終わるのなら、古代の叡智が必要とされるのではないかと思いました。