『ヨーガの哲学』(立川武蔵、2013)
<以下一部抜粋・要約>
『ヨーガ・スートラ』の哲学
スートラとは何か
「スートラ」とは、元来は「糸」を意味する。
経の意味でのスートラは、通常、できるかぎりみじかい文章でのべられており、それだけではその意味を理解するには困難な場合が多い。
「スートラ」とは、先生が弟子に説明するときのキャプションあるいは、目安となるものであって、それのみで学習するべきものではないからである。
『ヨーガ・スートラ』はつづいて「ヨーガとは心の二ローダである」とヨーガの定義をのべている。
問題は、「二ローダ」という語の意味だ。
この語は一般には、統御とか止滅とか訳されているが、この2つの訳語の意味には大きな相違がある。
「二ローダ」というサンスクリットの単語自体には、どちらの意味もある。
心の作用を統御するのであれば、心の作用が抑えられたり、変質させられることはあっても、心の作用そのものが無となることはない。
一方心の作用を止滅させる場合には、心の作用そのものが無となるのである。
「統御」と「止滅」
『ヨーガ・スートラ』の定義に登場する「二ローダ」は、「統御」あるいは「止滅」のいずれをも理解してきた。
後世の注訳家たちがそれぞれの立場に従って、「統御」あるいは「止滅」のいずれかを重視したのである。
ヨーガの全歴史を通じて心の作用がどの程度まで抑えられるかについては、異なった見解が見られる。
おおざっぱにいうならば、古典ヨーガ学派に代表されるような古い形のヨーガは、止滅という側面を重視し、後世の密教ヨーガでは、統御という側面を重視したということができる。
『ヨーガ・スートラ』は、ヨーガの哲学の理論的基礎を簡潔にのべる。
つまり、「心の作用が止滅されたときには、純粋な観照者である霊我はそれ自体の本来の状態に留まる」。
「観照者」「霊我」とは、すでに述べたように、サーンキャ哲学の述語である。
心の作用が止滅したときとは、世界の根本物質である原質(プラクリティ)が展開して現象世界となった過程を、逆に短時間にたどって到達する現象の状態を指している。
ヨーガが目指すのはそのような状態である。
霊我と原質
では、心の作用が止滅していないときには、純粋な「見るもの」である霊我はどのような状態にあるのか。
『ヨーガ・スートラ』がこたえる。
「そうでないとき、霊我は心のもろもろの作用に同化したかたちをとっている」
霊我は原質の活動を「王が、次々と登場し、踊っては引き下がる踊り子たちを見るように」見るのであるが、「王」の心は「踊り子たち」の姿に動かされてしまう。というよりも「踊り子たち」、つまり原質が、精神的原理である霊我に対してはたらきかけ続けているのが、心の作用の止滅していないときの状態なのである。
霊我は各個人に存在しているが、それらの霊我は世界に偏在している。
したがって、世界には個体の数だけ霊我が重なり合っているということになる。
原質も世界に偏在していて、霊我と原資とは互いに関係しあう。
原資は現象世界の様々なありさまを霊我に見せつけ、霊我自体は苦渋に満ちたこの世界とは無関係な純粋精神であることを霊我に悟ってもらおうと考えるのである。
サーンキャ哲学によれば、この多様な現象世界を作りあげたーー厳密にはこの世界へと自分をつくりかえたーー原質は、じつはかの見守るだけの役をしている霊我のためにこそ存在するのである。
原質の複雑な展開は、霊我を救済するためのはたらきであった、とサーンキャ哲学は告白する。
これが、以前に言及した原質の救済論的目的なのである。
私(チキハ)の感想です。
一気に読めるものではございません。
ここに抜粋した内容では、観照者や最小単位の物質など、現代の科学で聞くような話が展開されています。
違うのは、原質(最小単位の物質)とは、現象をつくりだし、霊我(私)は、その現象の中にもいるというところです。
そして霊我の数だけ物質は重なっている。
これは私にははじめての概念でした。
そしてその現象の目的は、私は純粋精神であるということを悟らせることです。
心を統御するとよいというのはわかるぅ、純粋精神へのながいなっがーいたび。