小学生の頃だった。
なぜ私は愛されないのか、と母親に聞いた。
もちろん、母親はそれどころではなく、ふいをつかれたような顔をして、いつものように言葉にできる何も持ち合わせなかった。
私はそれからその深い悩みを持ち続けた。
いまも、そうである。
その悩みが未解決なので、私の対人関係に影響をおよぼしている。
これは私を構成するひとつとなっている。
そろそろこのストーリーにもウンザリしている。
どういった運命のめぐり合わせか、私に賭けが用意された。
幸せの道に手招きする幻影が現れたのである。
そっちの道は本当に幸せの道だろうか。
あなたを信用していいのだろうか。
信用しなければ、楽かも知れない。
だが私は知っている。
今いる道は、崖につながっているのだ。
崖に落ちれば、楽かも知れないね。
危ねぇ、危ねぇ。
ときびすを返し、座り込んでしまう。
危なかったじゃねえか、と言うのも自分である。
幸せの道を行く、その道には、花が咲いていて良い人たちと出会うのである。
本当だろうか。
険しい崖と茨のしげった道なき道ではないのか。
しかし、誰かが足跡を残してくれている。
困難を抜け出す為の、ひとつの力強い考えを知ったので紹介する。
自分がどう思うかを軸にすることだという。
先の話でいえば、「私は両親を愛している」という軸を作るのである。
母親は母性のある人だったし、父親は生活を支えるために働く責任感のある人だった。
そんなふうに考え始めると、思ってもみなかったことが頭に浮かんできたのだ。
なぜ、家族の誰も聴かない、ジョンレノンとオノヨーコのレコードが家にあったのか。
子供用の百科事典があった。
世界文学全集があった。
絵本や童謡がそろっていた。
あの環境はおそらく父親のものだろうと、回想した。
そして私は、大切なことを知ることになるのだ。
なぜ私は、愛を失ったのか。
ある本を紹介する文が、ひとつの示唆を与えてくれた。
私なりの解釈で書きたい。
「「私は安全なの?」
人は、一瞬ごとに問いかける、感じる生き物だ。
人は、感情システムのネットワークが成熟していないため何歳になっても癇癪を起こす。」
これは、私の心が、どのような反応を起こしているのかを教えてくれる。
では、どうすればいいのか。
「論理的に考え、今ここに集中する、そしてワンネスと宇宙エネルギーについて考えることは、幸福と喜びと成熟に密接に関わっている。」
この知恵は、瞑想をしているときの脳波を作るのではないだろうか、日常のいざこざのときにも生かしたい。
「私はあなたを愛している」という軸を作るとき、私はあなたが与えてくれた愛を思い出す。
そして、安全を脅かされたと感じたときに、愛を失わずに踏みとどまってこの知恵を思い出したい。
臆病で不安定でゆらめいてしまうのが私の心だ。
これは、わたしの性質なのかと思うが、頑張って幸せの道を歩きたい。