わたしの恐れ
目をつぶりながら、静かな環境で、自分の中の恐れを抽象的な形にしてみる。
それは黒くて重いゴルフボールくらいの球体で、どれくらい重いかというと、意識で持ち上げないとどこまでも落ちてゆくくらい重い。
それを空に放つというイメージトレーニングをしている。
実はもう少し複雑なことをやっているけど、省く。
この重さは、一体なんであろうか、と考えると、すぐに父親との関係が浮かぶ。
静かな人であった。
だが、心が折れていた。
子供は家庭を守るために、いくつかの方法を使うと本で読んだ。
反抗する者、逃げる者、迷子になる者、あと何か一つくらいあったと思う。
子供は、親を助けたり、守ったり、救ったりするものだとわたしは思っている。
そのためには自分の命さえ差し出すほどの純粋さがあると思う。
幼かったわたしは、そのような例にもれず、命さえいとわないと思っていたと思う。
自己犠牲という言葉を知ったのは大人になってからだ。
しかし、相手の幸せのためにどこまで自分を犠牲にすればいいのか。
幸せと書いたが「相手の欲求を満たすために」といった方が適切かもしれない。
重い、重いのである。
このような重い思考と感情が心の奥底に流れているのである。
では、わたしの幸せのイメージは、どのようなものか。
やっと思いつくのは、笑っているわたしである。
その周りには、和やかな人たちがいる。
パステルカラーである。
わたしはそこで何をしているのか。
思いつかない。
どうやったら、そこに行けるのか。
分からない。
わたしは、明確な目標と計画が立てられないという特徴を持っている。
だが、今までの経験から分かってきたことがある。
自由にさせておくことだ。
失敗もまわり道もみちくさも、おバカも未熟もだらしなさも無計画も笑って許してほしい。
そうすれば、笑っていられる、きっと、あなたも、わたしも。