父親が私を愛せなかったのは、父親自身が己を愛せなかったからだ。
こんなことを言っていた。
「お前は何が正しいかわかるか。俺にはわからんよ」
こんな問いを小学生だったか中学生の頃の私に言うなんてね。
洞窟の奥からのぞくような暗い目をして、自分の父親が駅で倒れて死んだが、そのときに誰も助けてくれなかったとか、あの人がこんなひどいことを言うんだ、なんて話をする。
母親は、そんな父親に怒りをおぼえた。
頼りたいのに、頼れなかったからだ。
新しい土地で友人のいない核家族では、その行き場のない想いは、おのずと子供に向けられた。
つまり、二人は、それぞれが、満たしてくれと相手に要求しているのだ。
そして、その満たされない想いを満たすために、子供の愛を必要とした。
愛を奪われた子供は、心にぽっかり穴が空いてしまうのである。
この繰り返しなのだ。
これをやめなくてはならない。
私はそのことを学ぶために、この両親のもとに生まれたのだとさえ思う。
どうすればいいのか。
ここでこの問題は、なんであろうかと考える。
自分を愛することの難しさだ。
親になってみて分かるが、子供が幼少期には、無償の愛を与えられるのだが、それを過ぎると、社会で生きて行きやすい人に育てていくことが必要となる。
このあたりで問題が生じやすいと思う。
あなたがあなたである、それだけでいい。
なんて、かっこいい言葉であるが、これが自分に対してできるかである。
私が私である、それだけでいい。
そう自分に言えるようになるのには、かなり修行がいる。
自分の良いところと悪いところ、長所と短所、得手不得手をわかって受け入れること。
どんなことに積極的になって、情熱を持つのか。
それが、他人や、社会からどう見られるかより大切なのだ。
それが出来ないと欲求不満になってしまう。
恋愛とか、結婚は甘い物語ばかりに心を奪われる。
一緒になれば満たされるように思う。
だが、そうならないことは多い。
この無償の愛を自分に対してできていないからだ。
悟りとは、普段の生活の中で不幸を感じないでいられることだと聞いて、ナルホドと思う。
そのような人たちなら、恋愛をしても結婚をしても幸せでいられるのだろうと思う。