『喜びから人生を生きる!(Dying to Be Me!)』(アニータ・アジャーニ、2023)
私がなぜこの本を読もうと思ったのかというと「癌の原因は、恐れだった」と書かれていたからです。
私自身、癌の治療中「治らないのは恐れだ」と医師に言われたことがとても印象深かったのです。
私が医師にそう言われたときに思い浮かんだのは、癌とその治療に対する恐れでした。
しかし、この著者のいう恐れとは、人生全般におけるものです。
自分が属する社会や人間関係の中で、自分自身の本当はこう生きたいという本質を、表に出して行動することを恐れていたのです。
そうして自分を押し殺すエネルギーが病を引き起こしたのです。
彼女は言います。
「私の癌が治ったのは、心の状態や信念が変わったことよりも、自分の真の魂が輝きだしたおかげだ」と。
この著者の突出したところは、末期癌の昏睡状態で肉体を離れたときの体験から、それらのことを学び、生還した後に数日で癌を縮小させ、後に消滅させたことです。
<以下一部抜粋・要約>
私は、自分の人生が、これまで出会ったすべてのものの中に、複雑に織り込まれているとわかりました。
私の体験は、無限に広がるタペストリーの、壮大で、色とりどりなイメージを織りなす、1本の糸のようなものでした。
他の糸や色は全て私の人間関係を表しており、私が関わったあらゆる人生でした。
これを見ながら、自分のユニークな本質を表現する事は、自分自身への、自分が出会ったあらゆる人への、そして人生そのものへの義務であると理解しました。
自分以外のものになろうとすれば、良い状況がもたらされるどころか、真の自己を否定することになるのです。
他の人たちは真の私を体験する機会を失い、私自身も人々と真実の関わりを持てないでしょう。
その明晰な状態で、自分が、いつも思っていたような人間では無いことも理解しました。
「ここで私は、身体も、人種も、文化も、宗教も、信念も持っていない……でも存在し続けているわ。
それなら私は一体何なの?
私は誰だろう?
小さくなったり弱くなったような感じはしないわ。
それどころか、とても大きく、強力で、全てを包み込んでいるような感じ……こんな体験は初めて。
こんなふうに感じたのは、これまで1度だってないわ」
この時、私には身体がなく、身体的特徴はありませんでしたが、私の純粋な本質は存在し続けており、それは完全な自分と何ら変わりませんでした。
これまでの人生の累積である素晴らしいタペストリーを目にした時、なぜ今日いる場所へ至ったのか、はっきりとわかりました。
「自分の歩んできた道のりを見てみなさい。
どうして自分にあんなに厳しかったんだろう?
どうして自分を責めてばかりいたんだろう?
なぜ自分を見捨ててしまったの?
どうして自分のために立ち上がって、自分の魂の美しさをみんなに示そうとしなかったんだろう?」
「どうしていつも他人を喜ばせるために、自分の知性や創造性を抑圧ばかりしていたんだろう?
本当はノーと言いたいのにイエスと言って、自分を裏切ってばかりいたわ。
どうしてありのままの自分でいる許可をいつも他人に求めていたんだろう?
なぜ自分の美しい心に従って、自分の真実を語ろうとしなかったんだろうか?」
「まだ身体にいるうちに、どうして私たちはこのことが理解できないんだろう?
自分にあんなにまで厳しくするべきじゃないって。
私はなぜわからなかったんだろうか?」
私はまだ、無条件の愛と、受け入れられた雰囲気に包まれていました。
自分のことを新しい目で見ることができ、宇宙の美しい存在に思えたのです。
私は存在するだけで、愛のこもった思いやりを受けるのに値するのだと理解しました。
何か特別なことをする必要もなく、ただ存在するだけで、愛される価値があったのです。
それ以上でも以下でもありませんでした。
このような理解は私にとって驚くべきものでした。
なぜなら、愛されるためには努力する必要があるといつも思っていたからです。
私たち全員がつながっていることにも気づきました。
その織り込まれた統合体は、人間や生物の範囲を超えて、もっと外へと拡大していき、すべての人間、動物、植物、昆虫、山、海、生命のないもの、そして宇宙全体まで含んでいるように感じられました。
私(チキハ)の感想です。
このあと著者は、ただ存在する、ということに軸を置いて生活をし始め、そこで起こることに身をゆだねる様になりました。
ただ何もしないということではなくて、自分の体験を広める活動をしたい、というささやかな希望がありました。
そしてインターネットのサイトに投稿した記事に注目が集まり、引用する書籍があったり、ラジオで紹介されるところから彼女の活動は広がりをみせます。
しかし、わたしには著者の体験は、人類全員に共通するとは思えない箇所があります。
地獄はない、というところです。
もし、極悪非道の人間が憎しみや恨みの感情の中で、臨死体験をしたなら、教えてほしいと、ひねくれた私は思うのでした。
私は、そうならないように、彼女のように愛し愛される中で生きたい(死にたい)と思っていますけれども。
そのために努力したいと思っていますけれども。
それはそれとして、過去も未来もない、今があるだけ、パラパラ漫画のように時間は分かれている、個人は全体とつながっている、信念はいらないことなど、日本人の宗教感(仏陀の教えと思う)に近いものがありました。
自分を縛るルールの滑稽さは、うすうす感じてはいたんですけれど、自分が素晴らしい存在である、という実感って、この物質社会で優劣の価値観の中で感じることは異質です。
でも、そう思えたこの著者は、ただ存在するということで、自分の望みを引き寄せています。
覚醒、という言葉が浮かびます。