車椅子の男
抑揚がない女の声が流れている。
スピリチュアルな教えのようなもので、こうしなさいと方向を示す内容だ。
車椅子の男がいる。
女の声は男の膝の上に置かれたスピーカーから流れているのだから、男はそれを広める目的なのだろう。
駅の入り口は多くの人が行きかっていた。
キレイな服を着た中年の女性が「いいお話ね」と言ってお金を箱に入れた。
男は表情も変えずにいた。
男の顔は少し歪んでいて、眉間にしわがより、青黒い顔色をしている。
時間が来たのだろうか、不自由な手を使って、車椅子を移動させ始めた。
出所
男が刑務所から出るとき、遠巻きに数人の女が様子を見に来ていた。
噂話の好きな派手な女たちだ。
そのうちの誰かもしくは全員が男と性の関係があった。
だが誰も、男のそばに近づかなかった。
男は慣れた様子で小屋に入った。
板ははがれ落ちてすき間だらけだった。
「今日はここにいよう、明日になったらAの部屋に転がり込もう、小銭もくれるだろう」
男は顔色一つ変えないでいた。
床の板に横たわっていたが体を横にずらすと人影が見えた。
外はもう暗闇だった。
「誰だ」
道路の端に小さな灯りがともっていた。
毛玉の付いた黒いマフラーを鼻の上まで巻き上げて、メガネをかけた女がしゃがみこんでいる。
警戒した男は女を確認すると、肘をついて横たわった。
男は黙っている。
女は鍵を男のそばにそっと置いた。
「あたしは引っ越すから、その家を使って」
女が移動すると板がギシギシと鳴った。
女の家は一軒家で、両親が死んでから一人暮らしだ。
その辺に住んでいる者なら誰でも知っている。
どういうつもりなんだ。
本当に引っ越すのか。
なぜ自分にそうしようと思ったのか。
まあ、いい、そっちから言ってきたんだ。
何かあればそう逃げればいい。
男は、たあいもないことだと思った。
しかし、なぜここにいるのを知っている。
後をつけたのか、目星をつけていたのか。
一度も近寄ってこなかったのに。
男は女を見た。
女は小さく息を漏らした。
黒髪の女
男は端正な顔をしていた。
頭の形がいいので横顔が際立つ。
体の骨格のバランスがよく、筋肉がきれいについていた。
肌はきめ細かくなめらかだった。
そしてほのかな色気が常にただよっていた。
女は、男の体を見るのが好きだった。
胸と肩の筋肉、二の腕の筋肉のつきかたが美しかったので、部屋の中では男がシャツを着ないのが好みだった。
女の黒髪は自然にウェーブがかかっていて、艶があって美しかった。
二人はベッドの上が人生だった。
それから二人はあっという間に人生の荒波にのまれ散り散りになった。
二人は戻らなかった。