ユタカ2イキルオテツダイ

ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

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精神科の医者が自殺しやすいという。

カウンセラーの離婚率が高いという。

どこかでそんな記述を見た。

そういう矛盾した事実は、探せばいくらでも出てくるのだろう。

人は、幸せになりたいのか。

満足した生活を望むのか。

もしかすると、そうではないのかもしれない。

人は望むものを手に入れる。

それは、もしかすると私たちが意識しないで、望んでいることかもしれない。

そう、私が小さいころに、感じていたことだ。

母親が悲劇の主人公を演じていたし、父親は、すごいエネルギーを使って自ら不幸の洞窟に入り込んでいた。

そんなふうに見えていた。

私は高校生のとき、授業で将来の自分年表を書くときに、27歳くらいで結婚したら、2年後に死ぬと書いた。

無理やりその方向に舵を切ったように思う。

人生は退屈だった。

そのあとで厳しい思いを経験するんですけれども、それは体験したかったのだと思う。

ではなぜ、それを望んだのだろう。

それは、自分の意識が意識できる範囲を超えるのではないだろうか。

大人になってそういった考えがあることを知る。

輪廻転生、因果応報といった考えや、それによって真理を知る、魂を磨くとかいった考えだ。

それでも納得がいかないところがあった。

なぜそんなことをするのか。

何の目的で、誰が私をつくったのか。

神は様々なかたちでそれを体験したかったのだ、という考えがあることを知る。

神とは完璧ではないのか、という疑問が残る。

そうして地球は牢獄なのだとか、宇宙人が地球人を洗脳しているとか、そういう考えがあることを知る。

私たちは、自分の小さな喜びや、純粋な愛を小さいころに閉じ込めてしまうような社会に生きているようだ。

この地球で物体として生きるというしばり、世間の中で生活することと本当は違うんだという精神は矛盾することがある。

それを調和させて生きようとする人たちが、道しるべとなるのだが、それは科学的ではないのかもしれなかった。

私は自分の中の喜びや望みという、自分を喜ばすためのちいさな灯をいつも吹き消している。

または、自分はどうしたいのだろう、と思考するとき、灯の前に、シゃッとシャッターが何枚も降りる。

私は、思案する。

そして、私が主人公の悲劇のフィルム、という考えがあることを知る。

映画のフィルムのようなものだ。

そのストーリーの中で生きる。

それがもう嫌だと思ったら、そのフィルムを、幸せなストーリーに替えるという方法がある。

私は、自己暗示を繰り返した。

なぜ、いまさらそんなことをするのか。

それは、縁があったからだ。

その縁ももとから設定されていたのか、または自分がそれを望んだから、という説もあるようだ。

自分の小さな喜びや望みを自分で満たすことはできるようになってきたのだけれど、人にそれを語ることは怖い。

ちいさな灯を吹き消されるかもしれないという怖さだ。

私は、過去を振り返る。

そして勇気を出して、幸せのストーリーに舵を切るようにしている。

そうしているうちに、自分のブロックが外れて、ありえないイメージを抱く瞬間がおとずれる。

相手には決して見せたくないものだった。

自分がそんなことを望むなんてありえない。

しかし、私の思考や感情がなぜかつつぬけなのだ。

頭に浮かんだ映像までわかってしまうようだ。

非科学的だ、と思うけれど、どうなのだろう。

私は、恥ずかしさを通り過ぎた。

受け入れてもらったと感じているからだ。