縁のある男性は、父に似ている。
縁といっても、私が引っ掛かりを持つ対象となる。
そういうことが分かってきている。
父は、勉強が好きだった。
叔父さんが言うには、父は戦時中の陸軍の学校へ行っていたのだ。
「知ってる?学生の頃は凄かったんだよ、片手で受話器を持って英語で会話しながら、もう一方の手で違うことをしてる」
その様子から、憧れていたのだ、ということが伝わってきた。
「哲学をやりだしてから、おかしくなった」
叔父さんは、ビールが手放せない。
朝から飲むのだ。
矢継ぎ早に会話をくりだす。
本の話題が出れば、その系統の名著のタイトルを次々に言って、「知らないのか」とやりだす。
投資と言えば、質問攻めにあう。
その様子は、あらゆる方面からの攻撃に備えているかのようだ。
叔父といると、気が休まらない。
哲学をやりだしてからおかしくなった、と言うけれど、父の本棚に哲学の本はない。
笑っちゃうのは『血液型占い』の本が数冊あることだ。
父は生前、「人のことがわからない」と言っていた。
「何が正しいかわからない、お前はわかるか」そんなことも言っていた。
哲学なんて高尚なものの中に、答えはなかったのだ。
戦争という時代に生きた。
男性に求められていた価値は、偏ったものだったろう。
父と兄弟は結核にかかり、戦争に行けなかった。
そして敗戦である。
当時の結核は不治の病といわれていたので、初期のころのコロナ患者に対する反応をみれば、それがどんなだったか想像はつく。
挫折、罪悪感、自己憐憫、そういう感情と、答えのない問いに苦しんだろうと思う。
父と兄弟は見た目は良かったし、勉強も出来た。
だが、幸せにならななかったし、もっと言うなら幸せにできなかった。
誰を?
私を、である。
それらの男性に共通するものがあると思っている。
おそらく彼らの母親は、気丈夫で頭もよく、見栄っ張りであろう。
「まったくあなたはダメね」と言って育てたのだろうと、話の切れ端から想像する。
包容力や共感力、慈しみといった女性特有の要素よりも、勝気が勝っている。
だから、それら男性には、片方がかけてしまっているのではないだろうか、というのが、私の考えである。
片方、というのは、ダメなところや、弱いところ、失敗や挫折を受け入れる、ということだ。
昔の私は、それができなかった。
今は、自分の思い通りにならないのが人生なのだ、と分かってきた。
大人になった。
以前は、人の未熟さや足りなさが目についていやだった。
でも、そういう側面の価値も分かるようになってきた。
それは、女の人が集まって物事を進めていくときの、あの感じに似ているかもしれない。
感情的、許し、あいまい、直感的で、なぜだか自然と足りないところに人が回ったり、なかったものが他で補われたり、理屈ではないことで進んでゆくのである。
それは、高度な解決とは遠いかもしれないが、そういった社会で生きて行く人が不幸かといえば、父や叔父よりも幸せかもしれない。
周りの人も幸せかもしれない。
両方できる、そういうバランスの取れた、最強の人がいると思う。
日が出る前の、空を見ていた。
公園で、ヨガマットの上で屍のポーズをしていた。
価値観があるから、感情に引っ掛かることもありますけれど、ま、いっかと。
死んだら、そんなことにこだわることもなくなりますよと。
生きている間に、バランスの取れた人に近づきたいものだと思いながら、部屋に帰った。
ドアを開けると
「あたしは、いつになったら片づけられるようになるんすか」
と瞬く間に日常に戻った。