ユタカ2イキルオテツダイ

ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

ゾルバってなに

夢での情報を活用したいと思って、夢を覚えていようと思っても目が覚めると忘れてしまう。

先日、ぼんやりと覚えていた。

「ゾルバって言ってたな、なんか大事なことのような、お金という意味かな」

「ゾルンバの詩を思い出した、と言ってたな、なんだろう」

検索をしてみると、『その男ゾルバ』という本があり、映画化されていることが分かった。

ギリシャの奔放な男性の話で、名前がゾルバなのだ。

なんか、ぴんとこないので、他を探すとゾルバ・ザ・ブッダというタイトルの記事があった。

オショーという哲学者(没)が言っていることだ。

ゾルバが基礎で、仏陀が宮殿だ。

仏陀が頂点だが、基礎の石はゾルバによって敷かれる。

礎石を敷かずに仏陀であることを選ぶのはばかげている。

ここに出てくるゾルバが、その本の奔放なゾルバなのだ。

その記事を読んでいるとなるほどいいこと言ってる。

そう思って、何者なのかと他の記事を読んだり、調べていくと、どうも怪しさが出てきてしまう、新興宗教のカリスマであった。

瞑想や、自我を無くすことができ、超自然の何かしらの力を持つに至る人でも、自分の意識が、外部から操られている、と疑わないのだろうか。

今の科学技術は、そんなことが出来るのではないだろうか。

自分の無意識を疑い、無意識をふるいにかけるようなことを行わないのだろうか。

怖ろしいことであるな、と思う。

わたしは、ここ数年で、生まれながらに脳に何らかの洗脳があるかもしれないと疑うようになった。

それは、カルマかもしれないけれども、誰かが意図して洗脳している可能性もあるのではないかと思う。

へんなブログや動画の見過ぎだろうけれど。

でも、そんな中でも、疑わないのは、自分よし、相手よし、周りよし、天よしの四方よしで、答えを出すという斎藤一人さんの考え方だ。

わたしは、その考えに基づいてこのカリスマを見たとき、周りにも、天にもよくないよね、とあっさりと切り捨てることができる。

いいとは、愛があるかないかである。

本題とずれてしまった。

その男ゾルバで描かれているのは、対比なのだけれども。

(実際の本を読んでいないので、ウィキペディア他ブログの皆さんの情報からです。アリガトウ)

さわやかインテリの英国人作家の私と、脂ぎった中年男のギリシャ人、ゾルバが出会う。

私がけっして出会うことのなかった探し求めていた男だった。

私はゾルバを雇う。

それぞれ違う未亡人に恋をして、片や殺され、片や病死で死に別れてしまう。

仕事では、ゾルバの発案で建築されたものは倒壊し、全てを失う。

そのとき、この大地の野生につながっているゾルバがインテリを救うのである。

青い空と海と大地の中で、二人はギリシャの踊りを踊り、笑い合うのだ。

映画のダンスのシーンがYouTube にあった。

私は英語ができないが、「笑えるだろう!」と言って大笑いしていると思う。

笑いは、ゆるし、受け入れることと聞いたことがある。

不謹慎だろうか、笑いは祝祭だ。

私は、このストーリーで思い出しつつあった。

それは、中学生の頃に感じていた閉塞感と、探していた開放感だ。

オショーの記事の中にいいことが書いてあった。

光明が差す、ということだ。

自分の心の中に。

そのためにどうするのか、ということなんだけれども。

ゾルンバの詩を思い出したはずなんだけれども。

中学生の頃、ギリシャに憧れていたのを思い出す。

ギリシャ神話や、星占いを読んでいた。

女子なら、そんな憧れを抱く年頃です。

太陽と空、海、風、生の謳歌、肉体の讃美、神々への祈り、そんな詩かもしれない。