偏見について思う。
夜に胸が苦しくて眠れないのだが、これが一体何なのか、考えていた。
答えはふっとした瞬間に訪れた。
以前観た情報で、日本人の男子高校生くらい(そんなに若いという印象)だったと思うが、父親が亡くなった後、母親は彼の親友と結婚したのだ。
親友は、彼のことを考えてのことだった。
三人は家族として仲良く暮らしているようだった。
それを見たときの私の反応は、ありえない、という拒絶に近いものだったと思う。
そのころの私は、猫が犬や鳥と仲良くしているのを見ても、違和感を抱いていた。
同性愛についても、同様の反応だった。
これは、その当時(2010年ころ)では一般的な反応だったと思う。
私がその価値観を修正しようと思うきっかけは、斎藤一人さんだ。
一人さんは、これは時代が変化しているからだと言っていた。
歳の差も、異種動物も、性別も、愛があれば関係ないのだという。
その話は続きがあって、おそらく常識の枠を逸脱して、現在の人々には受け入れられる範囲を超える。
例えば不貞といわれる縛りについてもそうだ。
優秀な男の人には女性が寄ってくる、それは今は浮気と言われるけれど、これからは当たり前のようになる。
たしかに、古代のころや、今でも或る部族などでは妻を貸したりするようだ。
それを大らかな女性たちは受け入れていた。
くじで初めての相手を決めていたという村の話は、どこから聞いたのか忘れてしまった。
スマホが出てきたとき(2010年ころ)私は抵抗を示した。
私は自分の中で、価値観に縛られているのだと気が付いている。
時代はすごい勢いで変化している。
私よりも10歳とか20歳年上の人と話をして、情報に敏感な人はいるがその価値観は、テレビで有識者が伝えるもののようだ。
ここ数年、テレビで伝えるもの、有識者が伝えるものに信用がおけないと、情報を調べることが多くなってきている。
この流れは、どこに向かうのだろう。
確かな知識、知恵を知りたいという欲求は募っていくと思う。
そこで、わたしは初めに書いた胸の痛みの出所を確信する。
抵抗や拒絶が胸を締め付けているのだということを理解する。
自らの中に作る柵があるのだ。
その柵は、価値観や常識だ。
それを取り外しても、自分が安寧でいられる答えを求めている。
最近よく、自分の理想がかなうことを鮮明に思い浮かべるといいという話を聞く。
これは、美男美女をイメージしやすく、これでは到底たどり着けないとギャップで苦しくなる。
視覚化は難しい。
そこでまた胸が苦しくなる。
では、視覚ではないものをイメージしたらよいのではないか。
その胸に心温まるエネルギーの花を咲かせる。
それを見るようにすればいいのだ。
顔のしわは、大切な人の苦悩に寄り添って出来たものだ。
手術痕は、大切な人を守るために出来たものだ。
手のしわは、大切な人のために働いたから出来たものだ。
この考えは、老いを隠すことなく、歳をとるごとに優しく温かく許容していく姿を写真に留めていたものから学んだ。
それは、破壊的な強さだった。
困難や試練を乗り越えた先にあるものだった。
私は夢を見た。
夢の中の男性で、双子の男性の片割れを胸に抱きしめた。
不思議な夢だった。