論理的でない、アカデミックでない、現実的でない、誰がそのようなたわごとを信用するのか。
それが自分の身に起きたとき、錯乱することになるだろう。
自分の脳がバグってる、だまされてる、そうでないとしたら。
どうして、見たこともない人の容貌を知ることが出来るのか。
こういうことなのです。
私は、ファッションについては興味はなくなっていた。
はずかしくない程度に、安くて似合うものを探すくらいだった。
TEMUを見つけたときは、アプリでそれがかなうので嬉しかった。
でもあるとき、もし年の離れた男性と並んで歩くとしたら、どのような服装をしたらいいのだろうかと思った。
悩んでしまった。
なにせ相手の容貌が全く分からない。
スーツなのかな、だとしたら私もスーツならいいのかな。
そんなことを考えながら楽天とか、TEMUで見ていたのだが、子供の卒業式に着る服とか、仕事で着るようなものばかりだった。
それからその人物のSNSを見た。
二十歳そこそこの女優のポートレートは、知性的、キュートで、モスグリーンが似合っていた。
私とはかけ離れすぎている。
なぜ、この写真なのだろうか。
これは一体どういうことなのだろうか。
それ以前に、私が着る服を選ぶのに真剣に困っていたのかが伝わるのだろうか。
どうして、見たこともない年の離れた人に似合う服を提案できるのか。
自分の思い違いであったら怖ろしい。
カン違い○○ァである。
混乱した。
錯乱の方が近い。
しかし、これは私に向けられていると私は思っている。
その夜はうなされた。
それから持ち前の集中力で、自分に似合う化粧や服装について学んだ。
骨格診断では、曲線を生かした服が似合う、寸胴、短足をカバーするスタイルがいいようだった。
カラー診断では、黄色が強い深みのある肌色で、落ち着いた黄色味の入る色が似合うようだった。
顔の輪郭、パーツではキュートに入るようで、ボーイッシュな感じがいいようだった。
そこまで学んで、その写真の服の色が私に似合う色であること、そのスタイルが似合うタイプだったことを知った。
驚きを通り越した。
なぜわかるのか。
見えているのか。
透視能力はどこまですすんでいるのか。
私が想像するものよりも次元の違う想いがあるように思った。
最近、夜眠れないときがあった。
胸が苦しいが、病気ではない。
パニック障害という言葉も思い浮かんだが、打ち消した。
なぜなら、その原因となるものが見受けられないからだ。
私は思いを巡らせて、相手が、苦しんでいる可能性があると思った。
ミラーリングしているかもしれない。
そう、思い当たることがあった。
私は、二人の関係がはっきりとしないことで、遠い過去の辛い出来事を思い出していた。
それは、予行練習のような形で学びになったが、当時の辛さは私の心に深い傷を残していた。
そのことを思い出しては、いっそこのままブログをやめてしまおうか、とさえ思っていたのだ。
このインターネットだけが私たちのつながりだからだ。
そんな思考が、伝わっていただろうことは、今まで経験で分かっていた。
それが、原因だろうかと思った。
今は、なんとかしてこの胸の苦しさから逃れなくてはならないと思った。
そして、手のひらからオレンジ色の炎が出て、その暗く低く停滞したものを浄化するイメージを持った。
ずっとそうしていた。
次の日には、体が軽くなっていた。
私たちは離れることが出来ないのかもしれないと思った。
そして私は、過去の体験を違う角度で観察するようになる。
男性の苦しみである。
男の子だから強くあれと言われ、感情を閉じ込めて、優しさは馬鹿にされ、繊細さは生き辛さとなる。
そうして本当の気持ちを共感されることなく、褒められることなく、優しく微笑みかけられることもなく、虚勢を張って生きるのだ。
そうして、やや無邪気でやや誠実でややいい加減でやや優しい私のような人は、癒しと共感と笑いを与えてくれるように思うのだろう。
だが、である。
私の中にそれを見出す人は、怖れを抱き始めた。
裏の顔があるのではないかと。
そして、疑いは大きくなっていく。
私は己の醜さを誤魔化した。
そして2人はいつまでもクルクルと回り続けた。
そして遠く離れた。
私は疲れ果て、誠実さや穏やかさを求めるようになった。
今はだいぶ、まともな人に近づいてきている。
わたしはそのサイキックの相手と距離が近くなっているように感じている。
そして、自分の幸せが、相手の幸せということが、分かるようになってきている。