『セラピューティック・タッチ』(ドロレス・クリーガー、2000)
古代からの癒しの技術「手かざし」を現代的に解説した書となります。
ここから本の内容になります。
私の興味のあるところになります。
著者はニューヨーク大学で講座を持っています。
実際に、看護師など医療従事者は、ICUやケア病棟、医学的措置が取られる前の段階で痛みを和らげたり、手術時などでも患者の要望があれば使っています。
科学的な計測のデータを持ち、徐々に受け入れられていった経緯があります。
なぜか日本の医療関係では導入が遅れています。
人の境界は肌ではありません。
人が体調を崩すとき、バランスが崩れているので、それを調整します。
「場」には以下のような説明があります。
物質へのセラピューティック・タッチ
この本ではこれまで、人間の「エネルギー場」ということばを、とくに定義することなく使ってきました。
じつは、定義しようにも適当な定義がないのです。
というのは、人間のその方面に関しては現在のところ、未知の領域が多すぎるからです。
すでに述べたように、わたしはそのエネルギー場を、人間にかかわるさまざまな「場」の結合体として説明しています。
いわば量子論における粒子のように、多くの「場」の相互作用によって刻一刻とあらわれるものとして考えるわけです。
そう考えていくと、人間はほかのどんな生き物よりも数多くの「場」と相互作用することができ、そのことが進化の最前線に立たされてきた理由ではないかとも思えてきます。
とすれば、人間がひとつの「場」の現象としての物体と、離れたところから相互に作用できたとしてもふしぎではなさそうです。
離れたところから物体を変化させるサイコキネシス(念力)がその一例です。
上記が場に対する説明の抜粋です。
ヒーリングという行為は、「病む人の健康と幸福を願うヒーラーによる、いのちのエネルギー流の移行のこと」です。
いのちとは、古代の東洋の文献にある、プラーナのことです。
プラーナは、生命と呼ばれる現象の背後にある組織化する因子のことです。
人間は「たえざる流れの中の渦にすぎない」(シュリントン)
私(チキハ)の感想です。
科学の先端で分かってきていることと、古代から受け継がれている知恵が同じようなことを言っているという話は聞きますけれども。
生命って生まれて死ぬというようなことだと思っていたのですけれど、もうそこのところから考え直さないといけないようです。
太陽から降り注ぐフォトンが植物の光合成をうながし、有機物の合成の推進力となっている。
生命という現象は無機物からはじまっている。
フォトンとは光の粒子である電磁波の量子である素粒子のひとつ。
それなにそれなにで、理解するのにまだまだ続くのですが、割愛させていただきます。
けっこう、こわっってなりました。
私たちって何からできているの。
よく電磁波の及ぼす影響とか聞きますけれど、そう考えると怖いです。
私たちは、流れの中の渦に過ぎない。
次々と変化している。
エネルギー流。
量子論における粒子のように、という表現で私が分かることはほぼないのですけれど。
もう少しかみ砕いていうと、私たちは別々の多重の場に存在しているということですか。
それとも、一つの存在は、何枚もの多重の層で出来ているのですか。
それとも、一個の人という形ではなく、ばらばらに存在しているとか。
よくわからないのですけれど。
それはちょっと置いておいて、この癒しの力が発揮できる上級者は、意識を「癒し」の一点に集中させます。
人類愛というかエゴの入る隙間のない人の意図が、強く作用するとして、それってつまり、
この意図は、何なのでしょうか。
誰の中にも存在する、それに共鳴させるようなことができるとしたら、変容と超越が起きるということなのだろうけれども。
施術をする人の、知識や経験によって査定されることから始まります。
きっと、昔のお医者さんには、このような慈愛の心と、精神があったんじゃなかろうかと、思います。
こういった技術が今の医療現場にもっと広まることを期待したいです。
矢作直樹さんがこのチャンネルの複数回の中で、私の疑問の答えとなるようなことを言っていました。
魂と肉体は、どう関係するのかは分かりませんが、目に見えない何かについては、おぼろげに似たようなものとして感じます。
魂は、雲のように拡散したり集まったりするし、一人の個性だけではなく、複数の魂が入っていたりする。
肉体に入っているときにはわかりにくい。
テレパシーは、嘘がなくエゴがなければできる。
伝わらないのは、相手の邪推、それは魂の遍歴であるから、変わらない。