AI時代の新「大きな政府」論(ダニエル・サスキンド、2022)
〈以下一部抜粋・要約〉
はじめに
僕がこの本で描いていくストーリーは、科学者や労働者が思い浮かべる未来予想とは異なっている。
機械は将来においても全てをこなすようにはならない。
だが、今より多くのことをこなすようになるだろう。
経済格差に対する懸念の深刻化と、オートメーション化に対する不安の増大が同時進行で起きているのは、決して偶然ではない。
その2つの問題--不平等とテクノロジー失業--は極めて密接に関連しているのだ。
現在の社会における労働市場は、経済の反映を人々に分配する中心的な手段となっている。
ほとんどの人にとっては、仕事が唯一もしくは主たる収入源だ。
だが、その労働市場には既に不平等が大きく広がり、人によっては労働で得られる稼ぎが極めて少ない。
つまり、豊かさを分かち合う手段として、このアプローチはもう破綻し始めている。
考える価値のある問い
ここまでの前口上からはそうとは思えないかもしれないが、本書は未来に対して楽観的だ。
今後数十年で起きる技術進歩が、これまでの人類を支配してきた経済的問題を解決すると考えられるからだ。
科学者が経済学者がよく言うように、経済を1枚のパイと考えるならば、従来の課題とは、そのパイを全員の生活を支えられるほどに大きくしていくことだった。
1節によれば、1800年頃でも、平均的な市民が所有する物質的な豊かさは、紀元前10万年前と比べてさほど多くなかったという。
だが、ここ300年ほどで、経済は急成長した。
経済成長はたった1%程度と考えたとしても、孫の世代は僕たちの2倍は裕福になる。
「どうすれば全員の生活を支えられる位にパイを大きくできるか」という問題は、21世紀の技術進歩で解決されていくことだろう。
しかし、すでに指摘した通り、その問題解決は新たに3つの問題と入れ替わる。
不平等、支配力、人生の目的だ。
労働の時代
労働の時代とは、度重なる技術進歩が、労働者に害よりも、益を広くもたらした時代と定義することができるだろう。
人的資本の世紀
18世紀、19世紀の間は、国内の工場や工業機械、すなわち従来型資本に投資するかどうかが、国の経済的繁栄を左右した。
しかし、20世紀になってそれが変わる。
労働者のスキルと能力、すなわち人的資本に積極的に投資することで、国家の繁栄が形成されるようになったのだ。
高学歴の労働者が多い国ほど、新しい技術を有効活用できる。
大きな政府
経済活動は、どの程度まで政府の指導課にあるべきか。
どの程度は、指示を受けない個人の意欲に委ね、市場で自由な活動をさせるべきなのか。
20世紀において、この問いは経済に関する議論の中でも、最も意見の割れる時代だった。
大きな政府に求められる主な役割を2つ考えていきたい。
1つは、金銭的価値のある資本と所得をまだ持っているものに対し、大幅な課税をしていくこと。
もう一つは、そうして調達したお金を、持たざる者の手に分配する最善の方法を特定することだ。
所得分配国家
仕事が十分にない世界という文脈で、基本所得の給付を考える。
稼ぎを増やすためのベースラインではなく、その給付自体が彼らの所得の全てだ。
端的に言って、仕事の足りない世界では、コミュニティーに誰を含め誰を含めないかという問いは、避けては通れないのだ。
仕事で貢献することができない場合は、コミュニティーのために何か別なことをするよう義務付ける。
具体的にどんなタスクがこれに当てはまるか。
例えば、学問や文化を通じた貢献。
仲間のためのケアやサポート。
未来ある子供たちへの教育という支援。
生きる意味と生きる目的
僕はここまで仕事を、あくまで経済的な観点で、収入をもたらすかどうかという点だけで信じてきた。
この観点が有用である理由は、テクノロジー失業の脅威が明白になるからだ。
オートメーション化は、人間が行う仕事をなくすことによって、人々から生計の手段を奪う。
だが、1部の人にとっては、仕事の重みはそれだけでは語れない。
経済学だけでは説明がつかない思いがある。
仕事は単なる収入源ではなく、人生の意味であり、目的であり、方向性でもあるのだ。
意味のある仕事
経済学者以外でも、何人かの優れた学者が、仕事と仕事の意味について言葉を尽くして語ってきた。
人間を支えるのは「愛と仕事」だけ、というのは、ジークムント・フロイトの名言としてよく引用されるが、実のところフロイトが書いたのは、万人向けとは言いがたい難解な文章だった。
「人間の共同生活の成り立ちには、2つの基盤があった。
1つは労働への衝動で、これは外的な必然性に駆られたもの。
そして、もう一つは、愛の力である」。
フロイトの考えによれば、収入のためというよりも、社会に調和して生きていくために、仕事は人間にとって「欠かすことができない」。
誰もが心の内に抱えている深く、根源的な衝動のはけ口として、仕事が必要なのだ。
要するに、誰かの顔面を殴りつけるより、オフィスでキーボードを叩く方が良い、ということらしい。
意味づくり、国家
仕事の足りない世界に近づくにつれ、多くの人に人生の目的意識をもたらしていた従来の要素が消え、生きる意味を求める人々のニーズが満たされなくなる。
新たに、人生の目的をもたらす存在も登場するだろうが、そのすべてが善意のものとは限らない。
そこに意味づくり国家の介入が必要ではないか。
仕事の足りない世界で、僕たちはもっと根源的な目標に立ち返らざるを得なくなる。
考えるべきは、単にどう生きられるかではない。
どのようによく生きるかだ。
私(チキハ)の感想です。
「誰かの顔を殴るより、オフィスでキーボードを叩く方が良い」
根源的な衝動の意味〜。
仕事ってなんなのか。
人をきれいに保つ働きがあるのだと思う。
これは、仕事をする者に与えられる徳だ。
経済の論理ではなくて、誰にどれだけの分配をするのか。
思い浮かぶのは自治会などでの活動で、その人の働きなどを皆が見ている中で、不公平がないのかなどの話が上がるときに、その判断がある。
非常にわずらわしいものだ。
社会貢献をしない、または出来ない、それだけでその人は自分自身をきれいにすることが出来ないのだから、負荷を負っているとも考えられる。
ここでも仕事(地域社会貢献)とそれをする人のマッチングが少ない。
責任があり仕事も多い会長などの役割をこなせる人は少ない。
多くの高齢者や子育て世代、知的精神的に機能が弱い人は、群れの最後尾についていくことで精いっぱいだ。
それでも、フロイトのいうように、社会に調和して生きていくために、参加したい。
仕事をしたいのだ。
その仕事を作り、割り振るような仕組みがない。
そのうちそれも技術の進歩とともに解消されていくのだろうと、思う。
私は、それを待つ立場であることを認めざるを得ない。
私は最近考えることがある。
生きるための労働をする必要がなく人に承認される必要もなく、称賛される必要もなく、罪悪感なく夏休みが続くようであるなら、私は何をして過ごすのだろうか。
例えば自然の中にいる、そうして私が豊かになるとき、ただそれだけで、周りに影響を与えるのだと言う人がいた。