『ユング 夢分析論』(C・G・ユング、2016)
1875年、スイス北部のケスヴィルにて生まれる。
「コンプレックス」「元型」「集合的無意識」「無意識の補償機能」「内向/外交」「個性化」などの独創的な理論を提唱していった。
1961年死去、20世紀最大の心理学者の1人。
〈以下、一部抜粋・要約〉
避けられるならば、決して知性を働かせようとしないが、それでも愚かというわけではない、という人は驚くほど多い。
そして、知性を働かせているのは明らかなのに、信じられないほど愚かなやり方で、そうしているという人も、同じくらい多い。
私にとって、こうした事実は、常々印象的なものだった。
それと同じく、知的で抜け目のない多くの人たちが、まるで感覚器器官の働かせ方を覚えたことがないかのようにして生きていくということにも、私は驚きを感じていた。
目の前にあるものを見ず、耳に響く言葉を聞かず、自分が触ったり味わったりしたものに気がつかず、自分自身の体のことを自覚しないままに、生きるような人たちのことだ。
他にも、非常に奇妙な意識状態で生きているように見える人たちもいた。
まるで現在到達した状態が、最終的なものであり、どこにも変化の見込みがないかのように、あるいは世界や心とは静的なものであり、永遠に同じままに留まるものであるかのようにして、生きていく人たちだ。
彼らはあらゆる想像力を欠いており、もっぱら五感による感覚にのみ頼っているように見えた。
彼らの世界には、偶然や可能性は存在せず、彼らの「今日」の中には本物の「明日」が存在していなかった。
未来とは、単なる過去の反復なのだ。
今、読者に伝えようとしているのは、出会った多くの人たちを観察するようになった際に、私が受け取ったいくつかの第一印象である。
すぐに明らかになったのは、自分の知性を働かせる人は考える人であり、人々や環境に適応していくために、知的能力を用いる人だということだった。
同じように、知的ではあるものの考えることをしない人とは、感情によって自分のやり方を求め、見つけていく人だとわかった。
「感情」というのは多少説明を要する言葉だ。
感情は感覚と混同されることも多い。
私が思考と対象させて、感情と言う時、それは好ましいものなのか、好ましくないものなのか、あるいは良いものなのか、悪いものなのかといった、価値の判断のことを意味している。
このように定義される感情は、情緒や情動とは別のものである。
情緒や情動は、その言葉が示す通り、不随意的な表れのことだ。
私が言うところの感情とは、情動の特徴である明確な身体的反応を伴わない判断のことである。
思考と同じく、感情は理性的な機能である。
一方で、直感は、感覚と同じように非理性的な機能だ。
「勘」である以上、直感は自発的行為の産物ではない。
直感とは、むしろ不随意的な出来事であり、判断行為ではなく、様々な外的もしくは内的環境に左右されるものである。
直感は、感情よりも五感による感覚のほうに似ているのだ。
物理的で非精神的な原因に由来する外的もしくは、内的刺激に本質的に依存するものという意味で、五感による感覚も非理性的なものなのだ。
これら4つの機能のタイプは、意識が方向性を手に入れる明確な手段に対応している。
感覚は何かが存在していることを告げる。
思考はそれを何かを伝える。
感情はそれを好ましいものなのかそうでないのかを伝える。
そして直感はそれがどこからやってきたものなのか、どこへ向かうものなのかを伝える。
私がタイプへの分類が特に有用だと感じるのは、子供に親のことを、妻に夫のことを、それらの逆もまた然りだが、説明する必要がある際である。
自分自身の先入観を理解する上でも、タイプへの分類は役に立つ。
夢解釈にルールや、ましては、法則など存在しないとはいえ、夢の一般的目的とは補償することであるように思える。
少なくとも補償とは最も見込みのある、そして最も多くをもたらす仮説だ、と言える。
見過ごされ、無視され、そして抑圧されるのは、影の側面だけではない。
肯定的な性質もまた同じ扱いに従うことがある。
なぜ夢は、それに対して、率直かつ直接的になることができないのだろうか。
そして、なぜ夢は、ほとんど滑稽なまでの方法で、誤った方向へと導いてしまうように思える口上など抜きにして、はっきりとそう言うことができないのだろうか。
夢の象徴はその大部分が、意識のコントロールを超えたところにある心の表れである。
意味や目的性は意識的精神だけの特権ではない。
それは生きている自然全体を通して作動しているのだ。
根本的には、器質的構造と心的構造との間に違いは存在しない。
木が花を生み出すのと同じように、心は象徴を生み出すのである。
心理療法にとって、患者が嫌っているもの、恥ずかしいと感じるもの、恐れるもの、こういったもの全てについて、それを障害の原因に関連するものと考えて、患者から多少なりとも自発的な告白を引き出すことから始める、というのは通例のことなのだ。
分裂を癒すということ
医学的心理学者が象徴に興味を抱く時、その関心は何よりもまず「自然」の象徴にある。
「自然」な象徴は「文化的」の象徴とは区別される。
前者は心の無意識的内容に由来するものであり、それゆえ、基本的な元型的モティーフに基づく数多くのヴァリエーションに相当する。
科学的に理解することを通じて、私たちの世界は脱人間化してしまった。
人はみな、宇宙の中で孤立していると感じている。
もはや自然と関わり合うことも、それまでであれば象徴的な意味を持っていたはずの自然の出来事に、情動的に関与することもなくなってしまった。
もはや雷鳴は神の声ではなくなり、雷光も神の復讐の飛び道具ではなくなった。
精神を持つ川も、人間の生を意味する木も、知の化身の蛇も、偉大な悪魔を匿う山も存在しない。
人の自然に対する直接的な交流は永遠に失われ、それが生み出していた情動的エネルギーは、無意識の中へと沈んでいってしまったのである。
この甚大な喪失が、私たちの夢の中の象徴によって補償されているのだ。
私たちの夢が有する象徴を生み出す機能は、私たちの本来の精神を意識の元へ戻す試みである。
プリミティブな意識によって内容されるよりも前から生きており、機能していた心の喪失の微猴なのである。
胎児の体の進化は先史時代を繰り返す。
それと同じように、精神はその先史時代の一連の段階を通じて成長していく。
夢は、幼児的な世界と同様に、先史時代の世界についての一種の回想を取り戻すということを、自らの主たる議題とみなしているように見える。
私(チキハ)の感想です。
中学生くらいの頃に、フロイトを読み、心理学に対して何か少し違うといった印象を抱いた。
精神障害の原因が性に固執していると感じて、西洋的な匂いがした。
それはキリスト教の集会に参加した時に感じたものと似ていた。
その集会ではキリストの肉(パン)を食べ、血(葡萄酒)を飲むのだ。
未だによく知らないけれども、日本人には違和感がある。
ユングは、日本人の感性に合うと思った。
フロイトはニュートンで、ユングはアインシュタインに影響を受けている。
フロイトは個人的無意識で、ユングは集団的無意識があると考えた。
