『出会いを求めて』(2000、リウファン)
〈以下、1部抜粋・要約〉
序
近代とは、目が認識の道具となり、表象作用によって操作された「対象」の輪郭にとらわれるようになっている「作品的世界」を指す。
今日の最大の課題は、そのようなオブジェ思想をどう超え、いかにして視座を対象の輪郭から解放するかだ。
対象のそれ自体を透明にして、あたりの広がりを見えるようにするという、無にして有を限定する仕草においてである。
問題は、対象観念そのものを解体し、むしろ意識の自己限定をして、現実の形象の上でそのまま非対象的世界を、いかに開示しどう知覚の地平に解き放すかにあろう。
観念主義者たちのように、現実から像の空間に逃避を試みたり、シュールレアリストたちのように現実をありうべきでない形にねじまげたり、ポップ・アーティストたちのように、現実を虚像化し開き直ったりすることは、もはや無謀な役立てに過ぎない。
今や、観る「と同時に」観られ、観られる「と同時に」観るという両義的な詩的瞬間に立ち合う仕方として、現実が鮮やかな現実を開く場所であるように、内と外が刺激し合う生きた光景であるように、観ることを持続し普遍化させる出来事をもよおすことが仕事であり営みとなるべきであろう。
向こうからと、こちらからの相互的な関わりにおいて、形作られた、身体的な媒介項は、立ち会うものをして、いよいよ関係の状態性項に、他者性に満ちた直接なる世界のあリように出会わせる「即」の境地を開くのだ。
そこで顕在化せられる構造は、だから何者の像でもなく、正しく世界自身の世界する現象の場所性を喚起するものということができよう。
私(チキハ)の感想です。
副題は「ーー現代美術の始源」ということです。
私はこれまで現代美術の理論を知りませんでした。
水洗トイレを掲示して「泉」とか、わけわからんと思っていました。
針金を捻じ曲げて吊るされたものを見て、何を思えっちゅうねん、と思っていました。
公園とかに作られたオブジェも、立ち止まって観るし、触って観るけれども、よくわからない、と思っていました。
しかしリウファンの絵を見たとき、いいな、と思ったのです。
図書館にも書店にも画集が無かったので残念でした。
キャンパスに線が一本引かれていたり、数本水平に描かれていたりととてもシンプルなのです。
それは、デザインや色や構図が、といったものとは違いました。
私はそこに描かれているものを感じました。
今の私たちは、私がいるから観ることができる、といった人間至上主義に偏っているということ、たとえば、コップを用途や形、重さ、質感で観るようになっている。
本当にそのものを観てはいないということ。
本の中で、詩的に出会う、といった表現が出てきます。
普段何気なく使うコップが机の上に置かれていて、光が差し込んだときにハッとする。
そのときに、出会いがあるのだということ。
私は、詩とはなにかよくわかりませんでした。
芸術家とは何をする人なのか良く分かりませんでした。
この本に書かれていることは、難しくて私の言葉にすると内容が違ってしまうのではないかと思ってしまいます。
ただ、私の疑問に答えるようなことが書かれていたと思います。
出会いの瞬間の、あの感じを、表したい、理解したい、愛でていたいと思う欲求があります。
そして、表現者がいるから世界は観られるものとなるという意義となります。
観るものと観られるものは、両義性があります。
両義性を検索すると、「「身体」という言葉は、「自分を閉じ込める肉体的な限界」と「他者と繋がるための身体」という二つの側面を持つとされます。」とあります。
そして、知覚の身体性を通して表すということです。
それでしか私たちは残すことが出来ない世界に住んでいると思います。
文章、絵、音楽、踊り、儀式、造形、もしかするとスポーツや芸能、井戸端会議、世間話や何もしないで存在するだけでも、観る対象になるとき出会いは起こっています。
それを表現者は、表すのです。
これらのことが頭にあって散歩をしていると、俳句というのはそういう行為なのかと思いました。
古池や、と言ったとき既に情景が思い浮かび、かみしめるというか、感じることを共有するという行為が、そうなのだと思いました。
少し前までの私なら、だから何、と思っていたかもしれません。
お笑いの大喜利を見て関心してしまうこの頃。
出会いとは面白いのだと思いました。
