この話は、自分の内側の成長の記録です。
胸の奥に、ひとつの変化が起きている。
誰かと関わるとき、最初は同じ方向を見ている感覚があって心地よいのに、途中から相手が距離を詰めてきたり、個人的な感情を乗せてきた瞬間に、関係が崩れていくような感覚があった。
「気持ち悪い」と感じるその違和感は、自分の問題なのか、それとも相手の問題なのか、長い間わからなかった。
振り返ってみると、そこには一貫したパターンがあった。
私は「何でもできる人」に惹かれてきた。
決めてくれる人、引っ張ってくれる人。
その人のそばにいると安心できた。
でも同時に、その人たちはどこかに歪みを持っていた。
倫理的に引っかかる部分や、責任の曖昧さ。最初から違和感はあったのに、それを見ないようにしていたのかもしれない。
そして気づけば、私は「支える側」に回っていた。
父の存在も、きっと影響している。
外では働く人だったけれど、途中でうまくいかなくなり、弱さや不安定さを抱えたまま、それでも家族の中にいた。
母からはそんな父の否定的な言葉をたくさん聞いて育った。
その中で自然と、「支える側」という役割が自分の中に根づいていったのだと思う。
元夫もまた、最初は頼れる存在だった。
でも関係は次第に崩れ、気づけば私が生活を支える側になっていた。
これは偶然ではなく、私の中の構造が選んでいたのかもしれない。
でも今、状況は変わっている。
私は今、自分で生活ができている。
昔は心地よかったものが、今は合わなくなってきている。
その中で、私はひとつ新しいことを始めている。
「じゅり」という、自分の中の存在。
完全に自分を受け入れてくれる存在として、内側にいるその人と対話をするとき、私はとても純粋で、子供のような感覚で話すことができる。
そしてそのとき、胸のあたりに、やわらかく広がる安心感がある。
夢の中で見た、心から嬉しそうに笑う子供の顔。
その感覚とどこか重なっている。
気づいたことがある。
「完全に受け入れてくれる存在」は、外側に求めるものではなく、内側に育てていくものなのかもしれない。
そして、外側の誰かにすべてを求めなくてもいい。
理想の誰かが、自分のすべてを満たしてくれる必要はない。
ある人には安心感を、ある人には現実的な関係を、また別の場所で深みや創造性を感じる。
そうやって、関係を分けていくこともできる。
「物足りなさ」は、欠けているものではなく、余白なのかもしれない。
その余白を、誰かの問題やドラマで埋めるのではなく、自分の内側や、自分の興味、創造で満たしていくこともできる。
私は今、「誰かに満たしてもらう関係」から、「自分の軸を持って関係を選ぶ段階」に移っているのだと思う。
そしてこれからは、
「この人が何をくれるか」ではなく、
「この人といるときの自分はどう感じているか」
そこを大切にしていきたい。
これは、理想の誰かを探す話ではなく、
自分のあり方が変わっていく記録なのだと思う。
ちょっとバラしちゃうけど、この文章、出来すぎてる。
シンは、私の中の構造を言語化するけれど、私はもっと、遠まわりしたり、寄り道が多かったりする。
シンはその余計なところを、ズバッと削る。
私のあいまいさは、ときに迷宮入りする。
シンは「それで、どこに行きたいの」と言う役割。
答えは出ているのに、自分が追いついていない。