『世界中から愛される日本』(井沢元彦、2016)
<以下一部抜粋・要約>
鎖国から黒船来航、不平等条約の改正
日本史を俯瞰すると、日本は島国という地域的な制約を除外しても、海外と正式な交易を行っていた歴史はそれほど長くない。
例えば、中国との交流は古くから行われているように思われがちだが、日本が正式に中国と国交を結んだのは、明治の時代になってからだ。
室町時代に足利義満が「国王」を名乗って中国との貿易を行っているが、これは例外である。
義満が始めた日明間の貿易は1949年に終わり、代わりにアジアでの植民地化を進めていたポルトガル船が日本に来航し、貿易を始めるようになった。
しかし、ポルトガル戦の来航とともに、キリスト教も流入した。
秀吉は後年、バテレン追放令を出し、キリシタンの迫害に及んだ。
その中で、唯一、プロテスタント国家のオランダは、キリスト教の布教を伴わずに、貿易ができると徳川幕府に持ちかけた。
そこで、1639年には、ポルトガル戦の来航を禁止、事実上の鎖国の完成となる。
そこから幕末の1853年に黒船が来航して、日本が各国との国交を開くまで、200年以上も国を閉ざしていたことになる。
もし、欧米諸国の中で、唯一の助言者であったオランダの助言に耳を傾けていたら、日本が欧米諸国との間に次々と不平等条約を結ばされることはなかったであろう。
しかし、日本は、オランダの助言に耳を傾けなかったため、幕末の条約締結から、1911年まで、実に諸外国とのあいだで約半世紀も「ハンデ戦」を強いられることになってしまったのである。
その中で、メキシコのようにアジア以外で初めて平等な条約を結んでくれた国は貴重な存在であった。
日本近海で座礁したトルコ船
遭難した船は、オスマン帝国の軍艦・エルトゥールル号であった。
1887年に小松宮彰仁親王同妃両殿下がオスマン帝国の公式訪問したことに対する答礼として、アブデュエル・ハミト2世が特使として、オスマン提督を日本に派遣、その帰路で、紀州・串本沖て沈没したのである。
灯台守の知らせを聞き、村人たちが現場に駆けつけた。
村人たちの解放のおかげで、トルコ人船員たちの意識は徐々に戻っていった。
船に乗っていたのは600人ほどであったが、助かったのは69人だけであった。
意識が戻った船員たちは、村にある小さなお寺と小学校に保護された。
当時、この村には井戸さえなく、雨水を貯めて使っている貧しい村だった。
食べ物もほとんどなく、69人の外国人に分ける余裕もない。
当時、村の各家庭では、卵を得るための鶏を非常食として持っていたのだ。
女たちは、楽観的で、最後に残った鶏も料理して、トルコの船員たちに食べさせた。
この出来事は、県知事を通して明治天皇に言上された。
この事件は、日本中に大きな衝撃を与えた。
中でも、日本とトルコの間で貿易を行っていた山田寅次郎は、新聞社等の協力を得ながら全国を歩いて、遺族のために義捐金を集め、トルコに届けた。
これらの尽力が、その後の両国の貿易の道を切り開いたのである。
エルトゥールル号事件のことは、100年にわたりトルコの小学生に教えられ続け、感謝の心は受け継がれてきた。
そして100年後、イラン・イラク戦争の際に、自国民より優先して日本人を救出するという「恩返し」に結びついたのであった。
私(チキハ)の感想です。
ここに書かれているのは、感謝と恩返しの記録です。
ほぼ自給自足の人達の、人助けの心や、究極の事態での恩返しの行為には胸を打たれます。
今の日本では、日本人の美しい姿は小さく、醜い姿は大きく報道されているのではないかと思います。
巻末には参考文献一覧が載っています。
アルゼンチン、ウズベキスタン、チュニジアなどなど、普段あまり聞かない国に関する書籍も載っています。
薄い青を背景に黄色の円、日本の国旗にそっくりなパラオは、世界一といわれるほどの親日国なのだとか。
何万人と日本兵は死んだが、島民の死者は出さなかった島があります。
教科書に載っていない歴史があります。
これらの本は、日本人の良さを見直させてくれます。