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「円」の誕生―日本二千年の貨幣史にみるおかねの役割と日本人の金銭感覚

『「円」の誕生(坂本藤良、1984)

本の内容とは少し違いますけど、ジパングと呼ばれた黄金の国には、まだ埋もれた金があります。

日本にこのような技術があって、深海、温泉からも取れますし、下水、排水なども試験を予定しています。

商業化にはまだ時間がかかるようです。

高濃度の「金」 藻のシートで回収成功 東京 青ヶ島沖の深海|NHK 首都圏のニュース

 

<以下一部抜粋・要約>

お金は、なぜ必要か

人類の歴史上、お金というものが使われるようになったのは、ごく最近のことなのです。

原始人、例えば石器時代までの人類は、木の実、草の味を採集したり、獣や魚をとって生きていました。

いわゆる「自給自足」経済の時代です。

しかし人類の知恵が進み、生産の技術が進歩してくると、自然余ったもの、つまり余剰生産物が増えてきます。

それを他人、あるいは他の集団にやって、代わりに自分に必要なものを手に入れたいと思うのは当然の成り行きです。

こうして物と物との交換が始まります。

いわゆる「物々交換」経済の時代に入ったのです。

しかし、困ったことには、自分も相手も満足するような交換の相手はなかなか見つかりません。

長い長い物々交換の時代をヘて、人類は、1つのことを発見するのです。

それは、自分の余剰生産物を、まず「誰でも欲しがるようなもの」と交換しておいて、それから自分の欲しい物の所有者を探せば交換がスムーズにいく、ということです。

この場合の「誰でも欲しがるようなもの」それが「おかね」なのです。

とにかく、こうして人類の歴史の中で、わずか数千年前に人類は「おかね」という偉大な発明に到達するのです。

おかねと文字は、人類の二大発明といわれています。

 

貝のつく字を調べてみると

交換に使うために必要な「誰でも欲しがるようなもの」は、当初は自然に存在するものでした。

地球上の寒い地方では「獣の皮」であったり、温暖な地方では「オリーブ油」であったり、熱帯の島々では「サンゴ」であったりしました。

こういうものを、学者によっては「自然貨幣」と呼んでいます。

そのうちに、まったくの自然ではないかなり加工度の高い「織物」や「装身具」、金属製の「武器」などが交換の媒介物として使われるようになります。

これらのすべてを「物品貨幣」と呼びます。

中国やエジプトでは、今から3000年以上も前に貝類が盛んに貨幣として使われました。

 

女王卑弥呼に金八両を賜う

貝貨の時代の次に、金属のおかねの時代が来ます。

貝よりも美しく、貝よりも壊れにくい金、銀、青銅。

特に金は、考えてみると、全く不思議な金属です。

黄金色という人間を魅了するあの独特の色、輝き。

王水以外には決して溶けない。

適当に地中に存在し、しかもあまりたくさんはありません。

フランスの学者ムーニエの『銀行史』によりますと、早くも紀元前20世紀頃、バビロニアで金、銀がおかねとして使われていたそうです。

 

紀元前7世紀ごろになりますと、小アジアの王国リディアやインド、中国、ギリシャなどで地銀のままではなく、一定の形に鋳造しておかねとして使われるようになります。

歴史上はっきりしているのは、紀元前220年頃、秦の始皇帝が貨幣の形を円形で四角い穴を開ける形に統一したことです。

 

さて、日本を見ますと、各地の弥生遺跡から、中国の古代貨幣が出土しているのが面白いと思います。

中国では、秦を滅ぼした劉邦が高祖となって、漢帝国を起こし、前漢・後漢をヘてやがて、魏・蜀・呉のいわゆる『三国志』の時代になるわけで、この時代が日本の弥生文化期とほぼ一致するのですが、この間の中国の貨幣が日本に渡来しているのです。

そして、有名な『魏志倭人伝』には、邪馬台国女王卑弥呼に金八両を賜う、とあるのです。

 

ムラ、イチ、ミセ、マチの語源

原始古代の日本人が高度の生活水準を保っていたことは、文化遺産から明らかですが、外敵もなく、四季寒暖の自然に恵まれ、のどかな生活を楽しんでいたため、人工的な貨幣というものを必要とせずに過ごしました(ですから、日本には貝貨の時代がないのです)。

しかし、弥生期の後、西暦300年頃から600年頃のいわゆる古墳期になると状況が一変します。

今や大和朝廷による統一国家の形成が進み、そして大和朝廷は、中国、朝鮮から技術者や農民を積極的に帰化人として迎え入れました。

水田の開墾が進み、養蚕技術は進歩し、余剰生産物が急速に増大しました。

 

ウソから生まれた「大宝」律令

こうなると、日本文化は花と咲き乱れます。

古墳期に続く飛鳥時代の到来です。

この頃、日本全国で金や銀や銅が発見されるのです。

『日本書紀』によりますと、天武天皇のとき、対馬で銀が産出され、朝廷に献上されたとあります。

また、持統天皇のとき、四国の伊予で、銀が産出され、文武天皇のとき、因幡、周防から銅が産出されたと記録にあります。

そして、西暦701年、対馬で素晴らしい金鉱が発見されたというしらせが都に届いたのです。

 

「わどうかいほう」か「わどうかいちん」か

対馬での金鉱発見はウソでしたが、これが日本全国での鉱山開発ブームの中の出来事であり、このウソがまたブームを大きくしたことは事実です。

日本最古の鋳造貨幣とされる「和同開珎」も、こうした背景のつながりで理解されるのです。

 

私(チキハ)の感想です。

この後に日本全国で金銀、銅、鉄、錫などが発見されて、特に今日の東北地方、陸奥の国で金が発見され、それから長い間、日本の中心的な産出地となり、その金の話が中国に伝わって後に、マルコ・ポーロを驚かせ、その著書が刺激剤となって、コロンブスのアメリカ発見につながる。

ニッポンは戦国時代、世界最大の銀産出国となりました。

こういう中で、信長、秀吉は全国を統一し、安土・桃山時代となります。

金銀の大事なことを知っている秀吉は、戦国諸大名から金山、銀山、すべてを没収し、豊臣家のものにしてしまいました。

 

こう見ると、権力者がおかねを自分のものにするのは、歴史上当然の成り行きのように思えてきます。

 

日本では弥生時代(紀元前4〜5世紀から3世紀)の遺跡に中国の古代貨幣が出土しています。

そして6世紀に日本で初めての鋳造貨幣、和同開珎がつくられるんですね。

そして、文化が花開いていく。

縄文時代には、文字もおかねもなかったんですね。

その頃の暮らしについて興味を持つ人も増えているようです。

私も、もっと知りたいと思っています。