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円の誕生 近代貨幣制度の成立

『円の誕生 近代貨幣制度の成立』(三上隆三、2011)

 

私(チキハ)は、おかねというものが交換の手段として人々の間に自然発生的に起こったということは、直感的にも納得のいくのですが、

いつから金や銀を国が管理して、今のような制度になったのか知りませんでした。

日本では、天下統一がきっかけとなり、統治者が金山銀山を手中に収めたのが土台となり、明治に洗練され今の制度になりました。

 

新貨幣の呼称「円」がどのようにして生まれたかの由来は研究者でさえ分かっていないようです。

この本には、明治の初めの火事でそれら文献は燃えた、と書いてあります。

日本の近代貨幣制度成立の背景には、外国勢力(イギリス)が深く関わっているので、私は様々な憶測を呼びそうだと思います。

 

そして、横文字表記がYENで、なぜENではないのか。

本来ならワヰウヱヲのヱンでWENが使われると考えられるのに。

そこには、大きな野望が秘められています。

 

<以下一部抜粋・要約>

 

そもそも江戸期幣制は、なによりもまず各地に自然発生的に出現した、したがって品位のまちまちな貨幣や、

例えば加賀銀のような各地の領主が鋳造している既存の領国貨幣・地方貨幣を品位の統一されたーー金貨の場合には量目をもーー貨幣を出すことによって排除し、

幕府の威令を全国に及ぼし、

それを誇示するとともに、徳川氏自身が既にその支配下においている貴金属及び直轄下に置いている鉱山ーーたとえば、佐渡・生野・石見等の金・銀山から新たに掘り出される貴金属を、

意識的・計画的に、全国的な規模で政府のために機能する一般的購買手段として使用するのに便利な形式・内容のもとに排出・行使する目的で形成されたものである。

 

戦国日本を平定し天下統一を果たした豊臣秀吉には、全国的幣制確立の意思も能力もあったが、それを十二分に客観化し実現するにたる寿命をもたず、この世を去ってしまった。

秀吉に変わり、それを成就させたものが徳川家康に他ならない。

 

江戸期幣制期は、その時点においては、当時の未発達な貨幣的経済に対して、ただ幕府の支配下にある貴金属を貨幣として流通させるために考え出された、したがって現実とは一致しない机上案的なもの、そして未分化なものを含んでいたのである。



日本円の出現と銀本位制度の内定

幕府に加担したフランスに対し、イギリスは朝廷に味方し、新政府確立以来の国交諸外国のリーダーであったことをも考え合わせ、

当時の官僚が日本語のエ・ヱを英語国民にまねて、わざわざYe と表記し、それによって円呼称に国際性を与えようと試みたものと考えられる。

これはたしかに筋道の通った理由ではあるにしても、それだけの理由なら自国貨幣に自分の手で不正確な発音表記をするとは、あまりにもイギリスにおもねりすぎる行為である。

だが、事実としてYEN表記があえてなされたのには、このいわば表面的形式的な根拠の背後に、以下のような実利・野心をともなう、より強力な根拠・深い読みが横たわっていたからである。

 

想像をたくましくすれば、当局はそもそもの当初から、メキシコ・ドルの追放をもって新貨鋳造の目的の1つとしていたと思われる。

 

円銀は、その量目・品位の確かさ、偽造の僅少、デザインの優美という物理的条件とともに、不断のたゆまなき努力の甲斐もあって、漸次メキシコ・ドルを駆逐して、その流通圏を確実にひろげていった。

東洋地域での銀貨最盛期には、円銀はマレー半島・海峡植民地から完全にメキシコ・ドルを駆逐し、中国・朝鮮・シャム・フランス領インドシナの各地では、それと同等で流通し、その手強い競争相手となったのである。

最盛期はともかく、その初期の明治7年3月に当局は、日本の外交上には当然のこと東洋地域でも円銀は流通し、特にシンガポール・広東では、法貨としての資格をえたとして、喜びを持って報じているのである。