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ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

ユダヤ人、世界と貨幣

『ユダヤ人、世界と貨幣』(ジャック・アタリ、2015)

この本の、冷たく、悲しく、悲惨な印象は、ユダヤ人の受けてきた迫害や、殺戮や、追放の歴史から来るものです。

そのユダヤ人の、4000年の歴史を、ジャック・アタリは、「最良のガイドは、『旧約聖書』しかない」と言います。

私たちには馴染みの薄いこの書は、神から啓示を受けたモーセの語ることです。

私が不思議なことだと思うのは、『聖書』という予言書にどうしてここまでこだわるのか、ということです。

ユダヤ人の運命は、予言に沿っている、と確信しています。

この本の作者ジャック・アタリは、欧州の知性と呼ばれる人です。

『申命記』では現代が出現します。

この先は、どのように書かれているのでしょうか。

少し怖くて、好奇心もあって、いぶかりながらも読み進めます。

(*)は私です。

<以下一部抜粋・要約>

ユダヤ教の教典は、成文律法「トーラー」(モーセ五書)と口伝律法「ミシュナ」とそれをめぐる議論を集成した「タルムード」からなる。

「トーラー」は、ヘブライ語で「教え」を意味し、「モーセ五書」(『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』)のことである。

この五書を書いたユダヤ人は、将来体験するであろう五つの歴史段階の精神を、まるで予測していたかのようである。

 

「申命記」には、道徳的社会の立法について書かれてある。

それによると、貨幣に賛成するアイデンティティー、それに反対するアイデンティティーの両方とも容認されていた。

中東の諸民族の承認いかんで、世界平和と戦争が決まる今の不確かな時代の中で、引き出され得る価値を持つのがこの数千年の彼らの(ユダヤ人、すなわちノマードとしての)教訓である。

最も約束された文明、喜びの約束を発見することで、そして貨幣という新しい野蛮を閉じ込めるところでこの時代は終わる。

 

西洋と東洋の案内人

イスラエルを別として、ユダヤ人のディアスポラ(*撒き散らされたもの)は、とりわけ倫理的役割を演じ、すべての人間に、彼らが与えられた道徳的価値を想起し、他の人々を援助し、対話、創造、進歩、交換を継続していくことができるだろう。

他の文明が形成され、進展するとき、ユダヤ人は10世紀前に演じた役割を、ヴァーチャルな新しい道具で全く別の形で見つけることになるだろう。

西洋、イスラム、東洋との間の案内人、富、思想、文化の案内人、しかもこの新しい歴史の時代で、その主要な富である時間の案内人となれるだろう。

ユダヤ人は、自らの神を、旅をする時間、貨幣で価値を測る時間としての神(今ではすべての者の神である)に思いを馳せるがゆえに、

また、世界に時間を与えることで(神による永遠の時間、貨幣による物質的時間、芸術による精神の時間)、

その不幸、彼らの神、彼らの貨幣を他人の自由に任せたがゆえに、ユダヤ人は時間を人間の新しい進歩にすることができるのである。

文明の新しい調和、人間の流れにおける東洋化、物の流れにおける西洋化の中で、西洋と東洋との出会い、時間の様々な視点の出会いで優れた役割を演じるだろう。

時間という未来の文化に重要な、定住民とノマード(*遊牧民)に唯一共通の心理、すなわちホスピタリティ(*もてなし)を発展させる。

ホスピタリティは、時間との交換の中で、人を楽しませるという喜びの中では大きな役割を演じる。

最終的には、時間が土地と貨幣という二重の支配を免れさせてくれるのだ。

 

だからこの物語は、たんに人口的に少ない一民族を問題にしているだけではなく、人類史におけるすべてのマイノリティの役割を明らかにしているのである。

 

この物語は遅かれ早かれすべての民族が直面するジレンマ、すなわち、画一性という無差別の中で消滅するか、個性に対する非寛容で死にたえるか、というジレンマのことを説明しているのだ。

この物語は、すべてのもの、全ての社会関係が最終的には貨幣に変わり、すべての文化が支配的な文化に改宗していくことも語っているのである。

 

ノマードのテロリズムは人を惜しまない。

すべては、文化的アイデンティティーによって定義されたいという欲求に直面している。

自らゲットー化(*ユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区)しない限り、混交の坩堝以外のものになることができない。

すべては、世界の狂気に歯止めをかけるために倫理、道徳の価値に意味を付与しなければならない。

東洋において、今日最も約束されるディアスポラがある。

まず、ユダヤ人よりも20倍も多い中国人、ユダヤ人よりも30倍豊かな中国人が、そのアイデンティティーを守ることで、他人を食べさせていける能力を持つ家族、教育、努力に向かっている。

明日、グローバリゼーションによってこうしたディアスポラの数が増え、彼らを受け入れる国民の中で消えていくか、ときとして民族も、根も持たない新しい移民の出現でさらに増えるかもしれない。

こうした変動するモザイクによって世界がつくられるだろう。

このようなものとして世界を受け入れ、他人から期待できるものと、彼らが与えられるものを誰かに教えることでしか生き延びることができない。

少なくとも、ユダヤ人、世界、貨幣の歴史は、こうした教訓を教えてくれる。

すべての人間は、救われるために他者を必要としているということである。

 

私(チキハ)の感想です。

難しくて、理解しづらいのは、自分の国を持たない少数の優秀な民族の悲しみと、背負わされた運命のことです。

ノマードとしてあるいはディアスポラとして、あるいは、その土地の住民に溶け込むようにして生きた、ユダヤ人たち。

「申命記」に書かれた、すべての社会関係が貨幣に変わり、すべての文化が支配的な文化に改宗される、というのは、今起きていることなのか。

多様性とは、群れで、個性とは、個人で、どちらを取るのかというジレンマ……、日本人には感覚的に分かりづらいです。

「最も約束された文明、喜びの約束を発見することで、そして貨幣という新しい野蛮を閉じ込めるところでこの時代は終わる」

このように謎めいてこの物語は終わります。