ユタカ2イキルオテツダイ

ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

22世紀の民主主義

『22世紀の民主主義』(成田悠輔、2022)

<以下一部抜粋・要約>

この本は素人の妄想

素人だからと見捨てないでほしい。

『暴政』という30分もあれば読めてしまう小さな本がある。

ナチス・ドイツや戦前の日本など、20世紀の政治の暴走から学ぶ20の教訓を示した本だ。

いくつか味わい深い教訓を抜粋してみよう。

 

  • シンボルに責任を持とう。
  • 真実は存在すると信じよう。
  • 自分で調べよう。
  • アイコンタクトと雑談を怠るな。
  • 私生活はちゃんとしよう。
  • 大義名分に寄付しよう。

 

ずいぶんと地味で身近である。

こんなんで暴政と戦えるのかと心配になる。

だが、ちょっと考えてみればこの生活感は当たり前である。

「政治」と私たちが呼ぶ表舞台が海面に顔を出した氷山の一角であるとすれば、その下に隠れる巨大な氷山は無名で素人の個人たちの感情と生活だからだ。

個人的なものこそ政治的である。

 

民主主義とはデータの変換である

民主主義とはデータの変換である。

そんなひどく乱暴な断言から始めたい。

民主主義とはつまるところ、みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する何らかのルール・装置であるという視点だ。

民主主義のデザインとは、したがって、(1)入力される民意データ、(2)出力される社会的意思決定、(3)データから意思決定を計算するルール・アルゴリズム(計算手続き)をデザインすることに行き着く。

選挙はデータ処理装置、驚くぐらいざっくりと設計された単純明快なデータ処理装置と言える。

今ゼロから民主主義を制度化するとしたら、選挙とは違う何かが出てくるに違いない。

民主主義が用いるデータの質や量、そしてデータ処理の方法にはいくらでも改良の余地がある。

民主主義的意思決定というデータ変換における「入力側」と「出力側」を質量ともにドカッと押し広げることができる。

その一例が無意識データ民主主義だ。

この複雑怪奇なイメージを順に説明していく。

 

入力側の解像度を上げる、入射角を変える

まずやるべきは、一般意志に関するデータをもっと解像度高く、いろいろな角度から取ることだ。

 

データとしての民意1:選挙の声を聞く

選挙の中で何が起きてどんな人がどんな政策を求めているかを記録したデータだ。

 

データとしての民意2:会議室の声を聞く

民意のデータ化は、選挙という伝統行事を飛び出して町中の声にも及ぶだろう。

 

データとしての民意3:街角の声を聞く

人々の声のデータ化は会議室や家を超え、この世界のあらゆる片隅へと浸透していくだろう。

監視カメラ・マイクがとらえる政治家や政策への賞賛や嘲笑、悪口……サービス提供者のもとにデータとして記録されているそういったデータだって、民意の現れである。

いったん固定観念を外して、世の中に存在している、そしてこれからの社会に存在するであろう、私たちが一体どんな政府や政策を望んでいるのかということを語ってくれる情報すべてを汲み取ってしまおう。

それが、私が「民意データ」という言葉でざっくり呼んでいるものの正体である。

 

万華鏡としての民意

選挙を超えた、半意識・無意識の反応にも及ぶ幅広い民意データには2つの役割がある。

1つは民意への解像度を高めることだ。

民意データの2つ目の役割は、データの種類を変えることだ。

民主主義はデータ変換であるというテーゼを思い出してほしい。

Xが民意データ、Yがとるべき政策とすると、民主主義の課題はXからYを決める適切なデータ変換ルール・アルゴリズムを作り出すことになる。

問題は民意Xが直接にはわからないことだ。

そのため、選挙やその他の様々なセンサーやメディアを使って民意Xを示唆するデータを抽出する。

ここで平均化やアンサンブル化の発想が役に立つ。

 

アルゴリズムで民主主義を自動化する

エビデンスに基づく価値判断、エビデンスに基づく政策立案

無数のチャンネル・センサーから抽出された民意データのアンサンブルの上に芽吹くのが、無意識民主主義である。

常時接続の選挙なき社会的選択と言ってもいい。

 

データ・エビデンスの2つの顔

近代民主主義の建前では、国家と政策を導く根源は人々の一般意志でいいだろう。

一般意志を抽出するための古きよき不完全なインターフェースが、例えば選挙やロビーイングだ。

選挙やメディア・陳情を通じて国民から意思を与えられた立法・行政は、資源や専門性・暴力の占有を通じ、意思を遂行するための政策手段を実行する。

そういう筋書きになっている。

しかし、ふと世界を眺めてみると何かおかしい。

立法・行政が選んだ手段は効いているのが怪しい。

何より、一般意志の汲み取り機であるはずの選挙の網目が粗すぎる。

与党VS.野党、保守VS.進歩といった的外れな謎の2択を迫ることしかできず、世界各地で選挙ハックされ放題というのが現在である。

そこで現れるのが「データ」、そして「エビデンス」(データに基づく証拠)だ。

これら横文字群の役割の1つは、エビデンスに基づく政策である。

政府や自治体をデジタル化して効率化し、デジタルデータで最適な政策を発見しようーーつまり、与えられた目的に沿った無駄削減や手段改善だ。

しかし、データにはもう一つの隠れた役割がある。

意思や目的の発見だ。

人々の意識的な声を吸い上げる選挙に加えて、人々の意識しない暗黙の要求や目的まで、データから見つけ出すことはできないだろうか?

データ・エビデンスの2つの役割を融合すると、無意識データ民主主義が立ち現れる。

 

無意識民主主義のきたるべき開花

エビデンスに基づく価値判断を携え、透明に公開された真の無意識民主主義アルゴリズムがあらゆる政策領域に浸透していく。

今ある政策機械は推薦するのみで、最終決定は人間の政治家や官僚が手を下している。

だが、だんだんと最終決定まで制作機械が行うようになる。

人間はラテでも飲みながらゲームしつつ、制作機械が暴発していないことだけ横目で確かめるだけになっていくだろう。

 

政治家不要論

無意識民主主義は、生身の人間の政治家を不要とする構想でもある。

 

私(チキハ)の感想です。

読み始めの違和感は、アメリカのメジャー誌のジャーナリストが書いた政治経済本を読んだときと同じものです。

序盤のトランプ批判、PCR検査、ワクチンの話題について触れた箇所でそのことを思いました。

人の痛みに共感しない、不都合な真実に突っ込んでいかない感じを受けたからです。

著者はエリート崇拝の毒舌家です。

しかし、読み進めるうちに、それだけではないものを感じ引き込まれていきます。

コスプレで人気を得ようとする日本の政治家をコケおろし、資本主義、民主主義、選挙に異常さを感じてこのようなことを言っているのです。

ここに書かれたことは、何も目新しいものではないと言います。

前回の記事にも書いたように、未来は、人よりも優れた機械が私たちをサポートしてくれるようになると思います。

そして、あくまでも私たちが優秀な上司のように意思決定を下します。

ここで、この無意識民主主義に、疑問を持つとしたら、私たちの無意識が、平和的で愛があるのだろうかということですわ。