ユタカ2イキルオテツダイ

ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

全然この世界に属していない

『国家の尊厳』(先崎彰容、2021)

社会で、私たちの共通の道徳観は、しばらく姿を見せていないと思います。

私はその姿を見てみたいと思います。

それは、自分が想像できることが望ましいと思います。

それには知識がいると思います。

知識なんかなくても直感の鋭い人はわかっているのかもしれませんが。

<以下一部抜粋・要約>

 

孤絶した大衆、全体主義の誕生

著者が注目したいのは、『全体主義の起源』という著作で有名なユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントです。

イギリスなど諸外国に比べ、階級社会化されていない日本で、代わりに所属先として機能していた中間集団が解体されるとどうなるのか。

今から100年前の社会を描いたアーレントの議論が、今でも通用すると思うからです。

彼女は著作の中で、次のように大衆社会を描いています。

第一次大戦は世界の風景を一変させるものであった。

階級社会の崩壊が、共通の利害によって結ばれていた人々を、バラバラにしたからである。

例えば政党、利益団体、地域の自治組織、職業団体などに所属しない個人が、団子状に集団化した状態のことを「大衆」と呼ぶ。

問題は、彼ら大衆が民主主義に決定的な終わりを告げる存在だった点にある。

アーレントによれば、民主主義の下では、一国の住民は公的な問題に積極的な関心を持ち、何らかの政党や団体に所属する存在でした。

だが大衆は、こうした公的問題への関心を全く抱かない点に特徴がある。

また、大衆は、政治に無関心であるのだから、政治的な重要性を持たない存在であり、中立的な存在に過ぎないと、民主主義者は評価してきた。

だが実際には、後にヒトラーやスターリンを生み出すような巨大な政治的な力を持っていたのである。

 

大衆の3類型

本来、人はどこかに所属している限り、孤独感を抱えても、競争で失敗したとしても、最低限の安定を感じることができていた。

しかし「大衆社会の中の個人の主たる特徴は残酷さでも愚かさでもなく無教養でもなく、他人とのつながりの喪失と根無し草的性格である」。

彼女によれば人間はひとりでいる際、「孤独」と「孤立」、そして「ロンリネス」という3つの状態に分けられるという。

第一の孤独とは、例えば漫画家や芸術家の生活、哲学者の施策などを指しています。

彼らの創作活動は、基本的に自分自身との対話だから、自問自答や自分では確信が持てず悩むなどの孤独になりがちである。

でもアーレントは、他人からの評価や友情によって、彼らの孤独は癒され、アイデンティティーを確立できると考えています。

ところが、第二の孤立は孤独よりも深刻であり、ロンリネスはその最終形態です。

最終的に、私生活までも破壊され、一切の絆を絶たれた状態のことを、アーレントはロンリネスと名づけました。

そしてテロルや全体主義国家が生まれるのは、こうした荒廃した精神状態の大衆が動員されるからだと分析したのです。

つまりアーレントは、私たちは大衆社会を生きていて、「余計者ということは、全然この世界に属していない」という感情を抱えているというのです。

そして本来人間のあるべき姿について、次のように指摘します。

「コモン・センス」以降の1文に、特に注目しながら読んでみてください。

 

私が他人の人々と接触しているということに、つまり、他のすべての感覚を規制し統制している我々の共通感覚(コモン・センス・道徳)に依存している。

そしてこのコモン・センスなしには、私たちの一人々々は、それ自体としてはあてにできない不確実なものである自分自身の感覚的知覚の特異性の中に閉じ込められてしまうだろう。

 

コモン・センスとは共通感覚とも常識とも訳される言葉です。

多数の人間がヨシとする価値観に支えられていない個人は、自分の中に閉じ込められてしまうとアーレントはいっています。

コモン・センスには時間の蓄積と実績がたっぷりと含まれています。

幾多の試練と検証を経たうえで形作られてきたのが、常識なのです。

 

社会からの正当な評価

そしてアーレントが導き出した処方箋の1つが国民国家でした。

実際、アーレントは次のように述べています。

「民族が自分自身も、彼らのものと定められた特定の定住地域に根を下ろした歴史的・文化的統一体として自覚し始めたところではどこでも、国民と国民解放運動が登場する。

なぜなら彼らの住むところには歴史が誰の目にも明らかな足跡を残しており、したがって大地自体がそれを耕作し田園につくり変えてきた祖先の共同の労働を示すと同時に、この土地に結びつけられた子孫の運命をも支持しているからである」。

いうまでもなく、ここに描かれている祖先と子孫へのまなざしは、時間の積み重ねがなければ作ることができません。

そして祖先からの責任を背負い、子孫の将来を思うことで「私」が存在し、生きる意味を与えられている点で、個人は共同性に支えられている。

人間の尊厳とは、「私」を尊重せよ!といった個人主義的なものではない。

他者から役割を与えられることを指しているのです。

アーレントの議論から、現代社会に対して、2つの重要な論点を導き出すことができます。

第一に、私たちはしばしば、非正規雇用の問題点を指摘します。

その際、格差が広がり、収入が不安定であることに注目する。

筆者はすでに非正規雇用の特徴を野球選手と比較しつつ、毎年仕事場所の移動を余儀なくされ、自分自身以外、頼れるものがない不安を指摘しておきました。

アーレントを踏まえれば、そこにもう一つの特徴を付け加えることができるでしょう。

非正規雇用が何より辛いのは、彼らが「社会から正当な評価を受けられない」からなのです。

アーレントがいうコモン・センスとは、社会で自分はおおよそこのような地位にいて、存在を承認されているという感覚です。

常識の範囲内に収まってアイデンティティーを承認されているということです。

 

国家の尊厳

令和日本のデザイン

日本は、今、どこに向かっているのでしょうか。

わが国は、今後、どこへ向かえば良いのでしょうか。

ここまでの議論を復習しつつ、令和の国家像を示しましょう。

あらかじめ結論をいいます。

令和の日本は、「尊厳とコモン・センス」をキーワードにした国づくりを目指すべきだというのが、筆者の意見です。

 

「行動」は個人で行うべきもの

「尊厳」とは、この私を尊重せよ!といった個人主義的なものではない。

他者から役割を与えられること、それを果たすことで得られる満たされた心の状態を指しているのです。

個人を集団に溶解するのではない。

逆なのです。

しっかりとした伝統を足場にしてこそ、個人は自立する。

公的な問題に取り組む精神の構えができるのです。

 

国を閉じるという精神の構え

第一に、日本は、正しい意味で国を閉じるべきです。

これはあくまでも精神の構えに他なりません。

政治であれ経済であれ、現実は否応なく私たちをグローバル化の渦に巻き込んでいます。

大事なのは、それを無条件の前提とみなし、棹さすような態度はありえないということです。

また日本人の内向き体質に迎合し、鎖国時代に戻れといっているのでもありません。

そうではなく、暴力化する国際社会で主要プレーヤーが多頭化する時代に、日本は「自己同一性」をしっかりと持ち、自らの生活リズムを崩さないという意味です。

 

私(チキハ)の感想です。

私が、この本を読んでいて一番思ったことは、国家のことを書いているのですけど、じつは、個人のこととしても読めるということでした。

それは、アイデンティティ(自己同一性)とかいう難しい言葉と、コモン・センス(伝統・道徳)とかいう言葉が、今の時代を生きている私たちに「掴みたい感覚」を呼び起こすからです。

「精神の構え」という言葉にも同じようなものを感じます。

私たちは、世界に触れていません。

この感覚は面白いです。

戦前戦後、昭和の時代は懐かしく感じますが、少し遠く感じます。

最新のテクノロジーを使って世界に触れている人たちの感覚も、少し距離があります。

伝統や歴史を深く学んでいる人たちの世界観とも少し違う気がしています。

それでも間違いなく、自分に影響を与えていると思います。

私は自分の親世代の人と話をしていて、とても柔軟に世間の空気を読んでいると感じます。

「もうお金はいらないの」なんていうから。

もう少し、日本の伝統や、道徳を学びたいと思いました。