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ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

ロシア・インテリゲンツィア

『ロシア・インテリゲンツィアの誕生』(バーリン、編桑野隆、2022 )

 

「個人の自由を、徹底して擁護したインテリゲンツィアの人物像を描いた本書は、19世紀のロシアがはらんでいた可能性、普遍性を探り当てる試みである」

と書いてあります。

封建制度に対する民衆の革命が吹き荒れている西欧を横目に見ながら、ロシアで、単なる「知識人」とは違う、知識と道徳心のある人達(しいたげられた農奴に関心、体制批判、知識階級)がいました。

「インテリゲンツィア」と呼ばれます。

その鋭い観察と感性に、その時代のロシアに生きる厳しさの中で、出てくる言葉の真実に、うろたえてしまいました。

*は私です。

<以下一部抜粋・要約>

 

一般に言われていることだが、人間は自由を望んでいる。

さらに加えて、人類は様々な権利を持ち、それによってある程度の行動の自由を要求できるとも言われている。

これらの公式はそれ自体としては、ゲルツェンにとっては空虚にひびいた。

それに、何か具体的な意味を与えられねばならない。

しかし、その時さえ、もしそれらが人々が実際に信じている仮説として引用されたならば、それらは真実ではないし、歴史によって生み出されたものでもない。

なぜなら、大衆は自由をほとんど望んでこなかったのだから。

 

*以下「」はゲルツェンの文章です。

 

「大衆は自分たちが得た一片のパンをあつかましく奪おうとする手を阻止したいと望んでいます。

彼らは個人の自由とか言論の独立とかについて無関心なのです。

大衆は権威を愛し、いまだに権力の尊大な輝きに目がくらみ、独立している人々を不快に思うのです。

彼らは平等とは平等に圧迫されることと理解しています。

彼らは現存の政府のように自分たちに逆らうのではなく、自分たちの利益のために自分たちを収めてくれる社会的政府を望んでいます。

しかし、自分たち自身で自らを統治するということは、彼らの考えに入ってこないのです。」

 

この問題については総じて「心にロマン主義を」とか「理想主義を」ーー言葉の魔術への願望、事物としての言葉への願望ーーが多すぎた。

空虚な抽象的名目のもとに血みどろの闘争が続けられて、多くの罪のない人々が虐殺され、最も怒るべき犯罪が黙認されてきた。

そしてその結果として言えることは、

 

「フランス人ほどに自由のために多くの血を流してきた国民は世界にありません。また街頭や裁判所や自らの家庭において彼らほど自由への理解が少なく、自由への実現を求めることの少なかった国民もないのです。

フランス人は世界で最も抽象的で宗教的な国民です。

彼らの下では理念への人間への尊敬の欠如、自らの隣人たちへの侮辱と手をたずさえて進みます。

フランス人はすべてを偶像に変えてしまうのです。

そしてその後は、その日の偶像にひざまずかない人間に災いあれ。

フランス人は自由のために英雄のように戦います。

そしてもし、あなたが彼らの意見に同意しなければ、考えもなしにあなたを牢獄に引きずって行くでしょう。

専制的な「人民の安泰」や、血みどろで、異端審問者的な「世界は滅ぶとも正義は行われるべし」と言う言葉が王党派にも民主派にも等しくその意識に刻み込まれています。

ジョルジュ・サンドやピエール・ルーやルイ・プランやミシュレを読んでごらんなさい。

あなたはいたるところで我々自身の道徳に適したキリスト教精神やロマン主義に出会うでしょう。

いたるところで二元論、抽象的概念、抽象的義務、強制された特性及び現実生活に何の関係もない公的で修辞的な道徳を見出すでしょう。」

 

結論として、ケルツェンは、これは無情で軽薄な言動であり、情熱を燃え上がらせるだけの単なる言葉、その意味を突き詰めれば全く無意味であることがわかるような単なる言葉のために人間を犠牲にすることだと言い、「ヨーロッパを興奮させ、魅惑させた」一種の「政治的児戯」だが、しかし、またヨーロッパを非人間的で不必要な殺戮におとし入れたものだとさえ言うのである。

「二元論」はゲルツェンにとって事実と言葉の混同であり、見出された真の必要性にもとづかない抽象的な言葉によって理論を築くことであり、実情に無関係な抽象的原則から演繹される政治的プログラムを打ち出すことであった。

これらの公式は、狂信的な空論家の手中にあっては恐るべき武器になってゆくのである。

彼らは何か絶対的な理想のために、もし必要ならば凶暴な生体解剖にこれらの方式を人間に押し付けようとしている。

その絶対的理想の証明は批判もなされず、また批判もできないーー形而上学的で、宗教的で、心理的で、いずれにせよ現実の人間の現実的な必要に無関係なある種の世界観に依拠している。

その世界観の名において、革命的指導者たちは良心に苦痛を感じずに人を殺し、拷問をする。

なぜなら、彼らはこの絶対理想が、またはこの絶対的理想のみが、社会的、政治的、個人的なあらゆる病を解決をもたらすか、またはもたらすに違いないと考えていたからである。

そして、ゲルツェンはこのテーゼを、大衆は才人を嫌い、すべての人間が彼らと同じように考えることを望み、また、思想や行動の独立にひどく懐疑的であると指摘して、トクヴィルやその他の民主主義の批判者たちによって我々が知っている線に沿って批判を発展させている。

 

「社会、国民、人類、理念への個人の従属は、人身御供の継続です。

無実のものを有罪者の代わりに磔刑にすることです。

社会の真の現実の構成分子である個人は、常に何か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印、その他の犠牲とされてきました。

何の目的での犠牲なのか決して問われることはなかったのです。」

 

これらの抽象語ーー歴史、進歩、国民の安全、社会的平等ーーは注目に値する。

なぜならそれはすべての無実の人々が仮借なく犠牲に供されてきた非常な祭壇だからである。

ゲルツェンはそれらを順次検討する。

もし、歴史がゆるぎない方向性と合理的構造とひとつの目的(多分、有益な目的)を持っているならば、我々はそれに合わせるか、あるいは逆らって滅びなければならない。

しかし、この合理的目的とは何か。

ゲルツェンはそれを認識できない。

彼は歴史の中に意味を見ず、ただ「時代の慢性的狂気の」物語を見るだけである。

 

「そして、キリスト教徒たちは野獣によって引き裂かれ、拷問にかけられた後で、彼ら自身が今度は、別の人を自分たちが迫害された以上に猛烈に迫害し、拷問にかけ始めたのです。

いかに多くの無実のドイツ人やフランス人たちが、まさにそのようにして全く理由なしに殺害されたことか。

その間、気の狂った判事たちは、彼らが単に自らの義務を行っているに過ぎないのだと考えていたし、異端者たちが火あぶりにされている場所から遠くないところで心安らかに眠れたのです。」

 

彼の見解では、窮極的に価値あるものは個々の人物の固有の目的である。

そして、これらを踏みにじることは、常に犯罪である。

なぜなら、個人の目的よりも高い原理や価値はないし、ありえない。

 

私(チキハ)の感想です。

実情に合わない、言葉や理論だけで、理想やユートピアや正義を語る人たち、権力者、そして、ひとりでいることのできない大衆は、流れていきます。

今でも、西欧では、ゲルツェンのいう「狂気の物語」が続いているのでしょうか。

ゲンツェンは、この社会で実際何が起きているのかを教えてくれました。

私の胸に、グサリと刺さったのは、「大衆は、自由を望んでいない」ということでした。

自分ではない誰かに、統治して欲しいのです。

「平等とは、平等に圧迫されること」これはもう、言葉を失いました。

大衆の考える体系の中に、失われたものがあると思いました。

どうしてこうなったのでしょうか、本来の血か、教育か、悪魔のしわざなのか。

西欧の思想、世界観は、日本人とは少し違うと思います。

ロシア人の繊細な、感性(思想)は、日本人と似ていると聞いたことがあります。