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ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

物価上昇は、貨幣過剰が原因か 高利貸しに頼る貧困

『東アジア国際通貨と中世日本』(井上正夫、2022)

 

宋銭と為替からみた経済史とあります。

専門書です。

ここで抜粋するのは個人的な気付きです。

本文の外にある説明のための引用などからでもあります。

断片的な感じになります。

 

<以下一部抜粋・要約>

 

近世からの理解を代表する者として、例えば岩崎勝氏は、中世の貨幣経済とされているものが、各階層にわたって展開したものではなく、一般農民は代銭納にも参加していないとし、近世のように小農でも手元で貨幣が触れられる仕組みによって、経済社会発展のダイナミズムが起動すると述べる。

 

1960年頃の日本の地方都市の周辺にも、なお、山で薪を拾い、土手の草を刈って牛の餌とし、家の裏の小川で顔を洗うという人々は存在していた。

彼らの日常の生産と消費の多くは貨幣とは無縁である。

しかし、今や、家庭内での食事すらしばしば貨幣で購入するものとなり、調理という自給自足的労働部分すら生活の中から消滅しつつある。

 

ところで一般に、高い利子率は貨幣供給を超える貨幣需要が存在していること、つまり貨幣不足を反映していると理解されている。

本書が扱う時代の利子率は極めて高く、年間5割から10割は普通であるから、前掲図で示したすべての点において、高い利子率が発生していたとしても不思議ではない。

これからすれば、常に銅銭は不足していたことになるのだろうか。

利子の本質を解明することは本書の目的でないし、その厳密な意義と確定は困難である。

ただし、現代の起業家が5%の利子率で借り入れをして新施設を建設したり、消費者が同じように新車を購入したりすることと、一方で、700年前の農民が税金の支払いに窮して自分自身や家族までをも担保にして100%の高利貸しに頼ることとは、意味が異なると思われる。

前者の起業家は将来の経済的成功を確信し、消費者は借入金返済までの間の自動車の使用に高い満足度を確信するが故に、利息の支払いに応じるのである。

貨幣供給量が貴金属貨幣に束縛されていたかつての時代とは異なり、現在では貨幣の追加供給の自由度は高い。

もし貨幣が追加供給されて、実際に起業家が事業に成功し、また新車の購入が満足な日々を送ったならば、事後的には、追加以前の貨幣供給量は不十分であったことが推定できる。

しかし、追加供給によっても、起業はなされず、新車も売れず、単に物価が上昇しただけだとしたら、追加供給は無駄であって追加前から貨幣供給量は不足していなかったことになる。

結果からしか推定できないという意味で、貨幣が不足していたか否かについては、現代の人にとっても判断は難しいと思われる、

この点は、本書で扱う各時代においても当てはまる。

違いは貨幣供給の自由度の差である。

一方の高利貸しでは、農民にとって将来への希望は無い。

彼に選択できるのは、今の破滅か、将来の返済不能とそれに続く債務奴隷化である。

もちろん、家族もろとも奴隷になったとしても、死ぬよりはマシというならば、この高利貸しも、慈悲に満ちた、農民の満足度に対応したものだと強弁することができる。

また、高利貸しは、もし借入人が逃亡でもしたなら、貸付金は元利もろとも消滅する危険があるし、貨幣の管理費用を考慮すれば、実際は10割の利息も決して高くはない、と擁護されたならば、高利の必然性に首肯すべき点はあろう。

こうしてみると、高利貸しといえども、前者の現代社会での貸付と同様の側面は認められることになる。

国家が運営した農民への低金利貸付も、利子率が異なるだけであって、構造は同じである。

しかし、本書では、後者の高利貸しでの高い利子率は、貨幣不足とは無関係という立場をとる。

その理由は、重税や食料不足や人口過剰を原因とする貧困のもとで発生する高利貸しは、貨幣の流通量にかかわりなく、常に発生してきたからである。

企業や新車を云々する以前に、重税は待ったなしで、毎年農民から搾り取るのであるから、高利貸しは常に存在する。

それゆえに、高利貸しの存在は、社会的な貨幣不足の根拠にはならない。

農民の貧困がいかに解決されるべきであったかという問題に対しては、本書は何も答えることはできないが、それは所得分配か、税負担の不平等の問題であろう。

とにかく、歴史上の多くの農民の窮状と高利貸しは、貨幣不足か否かとは無関係に存在するはずである。

それならば、本書における貨幣不足は何か。

本書では、財や労働力が、より少ない貨幣に対して交換されようとしている状態と定義する。

反対に、人々が、自分の財や労働力について、より多い貨幣とでなければ交換を肯んじない状態を、貨幣過剰と定義する。

人々が、貨幣において、貨幣の価値下落をかぎとって行動していること、つまり物価が上昇していることに、貨幣の過剰を推断するのである。

 

私(チキハ)の感想です。

私が1番に感じたのは、農民が、これほど困窮を極めていた、ということです。

重税や、食糧不足、人口増加を原因とする貧困、とあります。

現在では、それらの要因は減少しているように思います。

しかし、今でも農業だけで食べていける農家は、ほんの一部なのだと聞きます。

なぜなのだろうかと思いました。

どうしたらよいのだろうかと思いました。

 

お金には、定義があります。

価値の尺度、保存、交換です。

しかし、前近代の貨幣においては、諸機能が分裂している可能性があるといいます。

面白いと思いました。

これから、お金が多様化する中で、そのように、別々に機能するお金があってもいいと思いました。

自給自足の生活者(小農)が、お金に触れる仕組みになって、経済の発展のダイナミズムが起動したといいます。

それならば、社会に必要なのに、現金収入の少ない職業などにお金(交換のお金)が行き渡る仕組みになれば、経済は発展するのではないか、と思いました。

 

世界的な物価上昇(インフレ)が問題となっています。

世間にお金を流すにも、さまざまな要因(エネルギーや食料の高騰など)を推考しなければ物価の安定は難しいと思います。

そんなこと出来るの?

あるSF小説では、AIがそれらを管理していました。

物価の安定をはかりたい中央銀行は、むずかしい舵取りをせまられていると思います。