『資本主義に出口はあるか』(荒谷大輔、2019)
私たちがいま生きている「この社会」は、ロックとルソーの思想の上に建っています。
その思想の大前提は、デカルトの「我思う故に我あり」です。
筆者は、その大前提を、疑います。
土台を崩したら、建物が崩れちゃうじゃない。
何をしようとしてるんじゃい。
著者は、土台から作り直して、新しい社会を築こう、そのために必要なのは、哲学すること(全体を見ること)だ、といいます。
そのための本です。
ロックじゃない、ルソーじゃない。
資本主義じゃない、共産主義じゃない。
唯一信じられるのは、私じゃな……
<以下一部抜粋・要約>
「自由」「平等」という概念も、「この社会」であまりに神格化されているために、いろんな意味をごちゃまぜにして恣意的に使われています。
ですが、ロックとルソーで見ると、「自由」も「平等」も、互いに全く相入れない2つの意味を持っていることがわかります。
ロックとルソーはともに「この社会」のルールの設定に深く関係する思想家ですが、2人は全く違う意味で(それどころか完全に対立する)「自由」と「平等」という概念を使っているのです。
「この社会」における様々な混乱の原因は、そうしたところにも見出されます。
ロックの思想は資本主義の発展へとつながりましたが、19世紀後半にはその発展による歪みが大きな社会問題になりました。
労働者の権利等が確立する以前、資本主義社会の発展の中でそれまでには存在しなかった極度の貧困が生み出されたのでした。
その問題を受けた社会改革の動きが、様々な形で展開します。
経済学内部での改革だけでなく、資本主義社会の転覆を目指したマルクス主義革命、民族共同体の再興を目指したファシズムの運動が起こりました。
そうした様々な動きの背景にルソーの影響を見ることによって、一見すると複雑に見える「この社会」の構造をすっきりと見渡す視点が得られます。
第二次世界大戦後、「資本主義」の運動が収まる中で、アメリカを中心にしたした戦後国際秩序と戦後民主主義の体制が固まっていきます。
戦後しばらくは経済成長と民主主義社会の拡張は幸せな共生関係を実現しましたが、1980年代以降、ネオ・リベラリズムの台頭の中で旧来のリベラリズムの退潮が明らかになりました。
そうした流れをロックとルソーの対立を軸に見ることで、今の我々が生きる「この社会」を、その成立以来の長い歴史的なスパンで一望することが目指されます。
「社会契約論」とは何か
ロックとルソーは、ともに「社会契約論」という議論の枠組みを用いて近代における新しい社会のあり方を描きました。
社会契約論は普通、人間の「自然状態」というものを設定するところから始めます。
「自然状態」という語も、日本語でいうと不必要に曖昧で焦点がボケますが、西洋語でいうと人間が自分の本性だけに従って生きている状態という意味でほぼ確定です。
社会で人間が恣意的に作ったルールに縛られなければ、人間は自分の本性の通り、ありのままをさらすことになるだろう、というわけです。
しかしでは、人間のありのまま、というのは、どういうものでしょう。
ホップスは人間を放っておけば互いに争い合うものと捉え、ルソーはそれとは違って自然状態における人間こそが互いに対する慈愛の心を持っていたと考えました。
ロックは、実は一般に知られるよりもずっとホップズに近いところから出発しているのですが、それでもやっぱりホップスとは決定的に違います。
要するに、思想家によってある程度恣意的に、人間の「本性」を設定しているわけです。
重要なのは、そのよくわからない理屈で語られる「人間なるもの」の設定の上に、「この社会」で誰もが疑わない「当たり前」が成立しているということです。
例えば、私的所有の権利などがそうです。
ジョン・ロックの社会契約論
ロックはまず人間の自然状態、あるがままのあり方は「自分自身の体を所有していること」としました。
一見するところ、なぜこんな設定をするのかよくわからないというような自然状態の設定です。
しかし、最初の設定を「そういわれればそうだよね」ぐらいのライトな記述に抑えておくことが、おそらくはロックにとっては非常に重要だったのではないかと思います。
というのも「自分の体は自分のもの」とすることでロックは、すぐに「その体を使って作ったものは自分のもの」と展開し、そして私的所有の権利を人間の自然本性に組み入れることに成功するからです。
今の社会では個人化されることが「当たり前」だから、自分で自分の責任を取らなければならないわけですが、互いが私的所有を主張しない社会では、もしかしたらすべてを「自分」に還元しなくても良いかもしれません。
体が何らかの生産物を作るときには常に何らかの材料が必要です。
自分の体から排出されるものだけで何かを作るのなら、それはもしかしたら「純粋な贈与」といえるかもしれませんが、大抵の場合には、われわれは他の者との関わりの中でしか何かを作ることはできません。
だとすれば、なぜ生産物を独占的に所有する権利を持つなどといえるのでしょうか。
生産物の所有権を主張するためには、まず原料となるものについての所有権がなければなりません。
しかし、ロックの議論は「所有権」というものを基礎づけるためのものでした。
ルソーの立ち位置
私的所有を描くとする近代の構想に明確な反旗を翻したのが、ジャン・ジャック・ルソーでした。
同じく社会契約論を展開し、革命を介して近代社会の形成に実際に影響力を持ったルソーですが、その議論は明示的にロックを敵と認定したものでした。
ルソーの社会契約論
ルソーの社会契約論もまた、一貫して「文明の偽り」を糾弾するものでした。
その標的となったのはロックでした。
ルソーによれば、人間が本来享受していたはずの自然状態の幸福は、土地を囲い込んで私的所有を訴える人間が出てきたために失われたといわれます。
ロックが自然状態における人間の権利とみなした私的所有権を、ルソーはそれこそがまさに不幸の原因だと糾弾したのです。
では、ルソーはどのような社会を描くのでしょう。
(1)社会契約をしてルソーが示す共同体の一員になろうとするものはまず、自らの財産の全てを全面的に譲渡しなければならないといわれます。
(2)全面的な譲渡が完了した後に求められるのは、共同体のそれぞれの成員が、「人民の一般意志」と呼ばれるものを自分の意思にするということです。
(3)そして、この約束ができた人は(1)のステップで投げ出した自分の財産の全てを元通り手元に戻して良いということになります。
ロックとルソーの違い(1):平等
「法の下の平等」というのは、憲法にも謳われる近代の社会システムの柱の1つですが、この言葉に与えたロックとルソーの意味は全く異なっていました。
ロックは「何人も他人より以上のものはもたない」という言い方をしています。
ポップスやロックのいう「平等」は、まずは端的に「人間なんて大差ない」というものだったのでした。
それに対してルソーの「平等」には、必要に応じて結果の不平等を調整すべきという考え方が含まれています。
ロックとルソーの違い(2):自由
ルソーが望んだのは、「自由」だからこそ人が他人と協力しあえるような「社会」だったのです。
つまり、ルソーによれば「真の自由」とは、共同体の一員としてを忠実に守り、そのことで他者と協力し合うことを意味するとされました。
私(チキハ)の感想です。
フランス革命は、漫画で読んで知りました。
貧富の差は、今よりもっと激しく、市民に食べるパンもなくなった、そのとき、フランス女王マリー・アントワネットが、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったとか。
そして、絞首刑になったのでした。
長い目で見れば、人の生活はどんどんよくなっていると思います。
次の時代、いまより、良くならないわけがない、ですよね。
著者が、模索するのは、次の時代の思想です。
具体的なことは、あえて述べていません。
みんなに考えてほしいからでしょう。
この社会の前提は、何もかもを疑って、残った、疑っている私。
だから私があることだけが信じられる、というのは、利己主義の正当化になるのかもしれない、と思いました。
仏教では、「私」は「縁」であると聞いたことがあります。
利他の精神を、説きます。
人間なるもの、人の本性を定義するところで、ゼロ地点とはどこのことをいうのでしょうね。
ウキーッ、ウキって感じ……すみません、引き出しを開けたら、こいつが出てきた。