『ウォールストリートと極東 』(三谷太一郎、 2009)
〈以下一部抜粋・要約〉
政党制と国際金融システム
日本の政党政治(※政党内閣〈今の日本の国政〉)は
ワシントン体制( ※第1次世界戦争後の東アジアにおける国際政治体制)
の枠組みと不可分であり 、その外交は多かれ少なかれ ワシントン体制の枠組みに準拠して行われた。
ワシントン体制は国際政治体制であるとともに 国際経済体制であり 、その中心的部分が欧米及び日本の国際金融資本によって 構成された国際金融システムであった。
したって中国に対する四国借款団(※ 日米英仏が、中国に資本進出しようとした)に体現された 東アジアにおける国際金融システムは 、日本政党政治史の重要な要因として 位置づけられなければならないのである。
しかもそれは中国をめぐる国際関係に影響を与えただけではない。
四国借款団を媒介として 、日米間に親密な金融提携がもたらされ 、アメリカ資本は1920年代前半以降、 関東大震災の復興需要など及び水として、日本に急速に流入した。
その流れは1931年の 満州事変勃発に至るまで絶えることはなかった。
ひるがえって考えれば 、政党制が最初に出現したイギリスにおいては 、政党制と対をなす国際金融システムが機能していた。
その拠点が国際金融システムの中心として 世界に向かって開かれていたロンドン金融市場、すなわち ロンバード・ストリートである。
ロンドン金融市場は 君主を頂く英国国家体制と同じように、 複数の銀行に緊急時のための準備金が分散している 「共和制 」ではなく 、イングランド銀行に準備金が集中し 、一元化されている第一準備金制度によって信用を維持する「王制」に喩えられる。
イングランド銀行を最終的に指導・規制するのは、フランスのように「国家」ではなくて 「輿論」(※世論)であり、言い換えれば「政府の直接的強制」ではなく「輿論の間接的強制」であり、 大蔵大臣は「国家」ではなく「輿論」の代弁者としてイングランド銀行に対峙するのである。
金融市場を安定化させる 最重要要因としての「信用」とは、 まさに「情勢によって生ずる輿論であり、情勢の 如何によって変動する輿論」に他ならないからである 。
この「信用」として現れる「輿論」の本来的浮動性にいかに対応するかという問題は 財政金融の問題であるのみならず 、当然に政治の問題でもある。
私(チキハ)の感想です。
明治日本は 国際金融システムと 一線を画していた、と書いてあります。
それが、福沢諭吉と勝海舟の 外国借款政策をめぐる対立あり、日本の国際金融家の登場へ、と続くようになります。
それは当時の世界情勢の中で日本を懸命に動かしていた要人たちの歴史です。
財政も、政治も「信用」は世論である。今の私たちはネットで情報をとれますから、何が真実かを調べることができます。いい時代だなと思います。