『死について』(ルドルフ・シュタイナー 訳 高橋巌 、2011)
誰しもが死を意識しないようにしている。
それを意識するとき、崖のふちに立って下を見るような怖さを感じる。
もしくは踏み出してしまう。
シュタイナーはこう言います。
その瞬間は恐ろしいものではない。
死によって人は消えてなくなるのではない。
向こうの世界からこちら側の世界を見るようになるのだ。
天国も地獄も書かれていません。
この本が書かれたのは第一次大戦のころです。人類の歴史上、最も犠牲者が多い戦争です。
<以下一部抜粋・要約>
肉体の体験のように霊界を体験する
大切なのは、次のように思えることです。
--死の門を通った人は、別の生命形態を持っている。
だから死後とは、人生の諸事件を通して遠い国へ移っていった人のいるところなのだ。
死者とは、私たちが後からやっとたどり着くことのできる遠い国へ、先に移っていった人のことなのです。
ですから私たちが辛く、悲しいのは、別れている間のことでしかありません。
かならず再び出会えるのです。
戦争をどう表象するか
死と言う特別大切な問題についての今日の考察に付け加えなければならないのは、戦争をどう表象するかです。
霊的な観点からでも、戦争は、進化のための1つの病気のようなものだと考えることができます。
確かに戦争は1つの病気です。
しかし考えてみてください。
病気になった時、その病気をただ否定するだけでは、病気に正しく向き合ったことにはなりません。
病気の原因を知らなければなりません。
すなわち、戦争になる前に社会の混乱、不調和が先行していたのです。
体内の不調和に対処するために、病気が生じたのです。
死病にとりつかれるときにも、そういえます。
人は直接霊界に入っていけなくさせるような不調和を、自分の中に持っています。
霊界は、地上を生きる人にとって、あまりにも長い間、霧に包まれたような、漠然とした存在であり続けました。
そして直接霊界に持っていけないような不調和が心を支配していました。
だから死ぬ前に病気になったのです。
病気が魂を不調和から解放して、霊界に入っていけるようにしてくれているのです。
そして治ることのできた病気は、以前の諸人生のカルマを通して、多分数千年、数百年に亙るカルマを通して生じたものを清算するのに必要な病気だったのです。
同じように、戦争のことを考える時にも、血と鉄の中で遂行されねばならない悪だけを見るのではなく、文化の長い時の経過を通して生じてきた事柄を見る必要があるのです。
様々な関連への考察を深めること、私たちは今、このことを学ばなければなりません。
訳者あとがき
シュタイナーは、このよう生きるということの意味と価値のすべては、一人ひとりの人間の中にしか見いだすことができない、という立場に一貫して立っていました。
ですから『自由の哲学』の中にも、次のような1文が大事なところに出ています。
個的な人間こそが、一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心なのである。
国家も社会も、個人生活の必然の結果としてのみ存在する。(『自由の哲学』)
先に刊行した『シュタイナー魂について』につづき、シュタイナーの著作からのアンソロジーをこういう形で出版したいと願った動機のひとつは、自分だけは棚に置いて、「私」よりも「公」の方を、私人よりも法人の方を無条件で優先させるというように相手に強要する風潮が、私たちの道徳意識を完全に支配してしまっているというような気がするからです。
人間一人ひとりの存在の偉大さ、崇高さ、かけがえのなさを、人間自身が否定してしまったら、国家も社会も、そのことの必然の結果としてしか現れてこないのではないでしょうか。
私(チキハ)の感想です。
今、世界中で広がっている混乱も、同じように考えられそうです。
不調和が先にあってそれが表に出てきている。
どうやってそれを知ることができるのでしょうか。
自分の心の中の不調和を?
ふと人を笑わせている人を思い浮かべ、ゆるみました。
緊張している自分はバランスが悪い。
一足飛びに神秘的世界を理解できそうもないですけど、休んだり、ゆるめたり、笑ったりして、楽しい、明るい、美しいとかを感じる心で
考えていきたいと思いました。