『ヨーガ・ヴァーシシュタ』(英訳スワミ・ヴェンカテーシャーナンダ/訳福間巌、2021)
私たちは時折、非常に困難だと思う出来事に遭遇します。
そのときに感じるのは、自分では何も解決することができないといった無力感です。
恐れが大きくなって恐怖となって体を縛ります。
そんなとき外に助けを求めても、それは答えにならないことに気がつきます。
ある瞬間意識を奪われます。
風景だったり、風だったり、笑ったりしたその瞬間は、恐怖はありません。
そのことに気づくと、恐怖とは自分の作り出した意識であると思うのです。
意識は心をつくります。
そうして、恐怖を作り出す心を観察するわたしは、少し以前よりラク(楽)なところに居るようになります。
その状態が続いていれば、幸せな時間を過ごしていると表現できます。
この本によれば、どうやら私たちは、意識だけがある、ということのようです。
<以下一部抜粋・要約>
序文
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は、インド哲学の聖典の中でも特別な位置を占め、実践神秘主義の伝統においても崇敬されてきた。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は、多くの物語や解説を織り交ぜながら究極の教えを説いている。
それは哲学者だけではなく、現代の心理学者や科学者にさえ驚嘆すべき発見を与えることだろう。
現存する聖典の多くは、神が帰依者に向けて説いたものだが、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は神に向けて説かれた教えだ。
それは賢者ヴァシシュタが、神であるラーマに授けた教えなのである。
世界創造に関する真の理解をもたらす『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の哲学は、カシミール・シヴァ派の教義に極めて近く、その教えの核心は、「すべては意識である」に尽きる。
それはあなたが見る「あるがまま」の物質世界をも含んでいる。
これが絶対真理である。
世界は意識の戯れに他ならないのだ。
10世紀のカシミール・ シヴァ派の偉大な学者アビナヴァグプタは、「シヴァはハートの中で絶え間なく振動する唯我独尊の純粋真我であり、様々な感覚的体験の中で歓喜として現れるパラーシャクティである。
その真我が外的な世界の体験として顕現したのだ。
そのどこから『サンサーラ』という言葉が現れ出たのか、私には窺い知れない」と語っている。
これは『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の無類無比の哲学に等しい教義と言えよう。
はじめに
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は霊的覚醒と心理の直接体験を求める探求者の偉大な導き手だ。
それは疑いようのないことも事実である。
もしそれが読者であるあなたの求めるところなら大いに歓迎したい。
本書の中に同じ文章表現が何度も繰り返されていることを読者は見いだすだろう。しかし、それはただの繰り返しではない。
それでも、もしあなたが繰り返しを望まないなら、以下の詩句だけを読まれるがいい。
空の青さが視覚的な幻影であるように、この世界の現れは精神の錯乱でしかない。
それに思いを馳せるよりは無視したほうがいい。
この詩句はこの聖典の中に何度も現れる。
もしあなたがこれを明確に理解できないなら、この聖典を読みなさい。
何度も繰り返し説かれるこの真理が、あなたの心を解放するだろう。
賢者ヴァシシュタは、心を直接見ることを要求する。
その動き、その観念、その論法、推測した原因と投影した結果、観られる対象、観る者、観ることーーそして、それらが分割不可能な「一なる無限の意識」だと認識することを要求する。
それがこの聖典の特異性だ。
それゆえ、この聖典は至高の真理であると自ら宣言するのだ。
私(チキハ)の感想です。
この本は毎日少しずつ読むのに適しているようです。
「一なる無限の意識」は「ワンネス」という表現で今までも何度か目にしたことがあります。
あの人もこの人も私も根源は同じでつながっていて、あの人もこの人も私の一部なのです。
あの空も、カラスも、うじ虫も、湖も私の一部です。
それどころか、この本の中では、全ての物質、現象もその中に入るようです。
私自身は愚かで、未熟なものだと思うけど、そうなると許しちゃうしかないじゃない。
いろいろなことを、諦めちゃうしかないんじゃないかなぁ。
金ちゃん(息子)に語ったら、「それは全てを手にした人の言うこと」と言っていました。
「んん」確かにそうかもしれない。
ラーマは王子だし、ブッダも王子だった。
「アメリカで禅が流行ったのも、全てを手にした富裕層が始めたこと」と金ちゃん。
そして笑いをかみ殺して「ふふ、失礼かもしれないけどママは」。
論理をつかうことを知った金ちゃんは私を現実に連れ戻すよね。
全てを歓喜にさせる宇宙の根理、魔法の書は、依存や陶酔を拒絶している。