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経済は、人類を幸せにできるのか?

『経済は、人類を幸せにできるのか?』(ダニエル・コーエン、2015)

<以下一部抜粋・要約>

格差拡大と中流的幸福の没落

戦後、フォーディズムと呼ばれる生産システムが普及し、企業は家族の延長だとみなされ、その黄金時代が訪れた。

1950年代、このようにして労働者と管理職の賃金格差は縮まったのである。

それは、経営資本主義の黄金時代であり、フランスでは「黄金の30年」と呼ばれる。

高度経済成長期に起きたことだった。

1981年にロナルド・レーガンがアメリカ大統領に就任すると、資本主義は新たな時代を迎えた。

航空管制員のストライキを圧殺したレーガン大統領は、労働組合の権力を問題視した。

これがきっかけになり、企業は再構築され、戦後の労使間の社会的妥協は破壊された。

ポール・クルーグマンは、著書、『格差はつくられたーー保守派が、アメリカを支配し続けるための呆れた戦略』の中で、1980年代にアメリカで発生した劇的な変化を見事に叙述している。

「戦後のアメリカは、中流階級の社会だった。

政治的に穏健な中流階級が大勢いる、比較的平等な社会だった」。

 

1870年から1929年にかけて、アメリカ型資本主義が台頭したが、その時代には、50年代のときのように「中流階級」は現れなかった。

ただ、第二次世界大戦直後に、社会的格差は一気に縮まった。

第二次世界大戦により、人々の「メンタリティー」は、突如としてより公平な社会を望むようになったのだ。

マッカーシー時代の共産主義に対する恐怖症により、平等主義や勤労者階級の所得上昇などアメリカ社会の「共産主義的な傾向」はかえって強まったのである……。

 

超富裕層の夢

90年代以降、社会的格差は新たな領域に突入した。

アメリカについては、トーマス・フィリポンの研究、フランスについては、オリヴィエ・ゴデショの研究から、社会的格差の拡大は、金融が経済に占める割合と密接に関係していることがわかる。

 

……なぜグローバリゼーションは、我々の期待を裏切ったのか?

90年代には、新興国が牽引役となり、グローバリゼーションは、世界経済に新たな成長をもたらすのではないかという希望が生じた。

90年代後半、誰もが明るい未来を予想した。

世界金融危機の原因については、ウォール街の貪欲さや、そうした貪欲さに対する政策担当者の知的貧しさなどが指摘された。

しかし、世界金融危機という現象の核心は、アメリカが経済的に解決できなかった問題を、債務によって解決しようとしたことに起因する。

 

……異常気象、パンデミック、システミック・リスク

地球規模のリスクとして、気候変動や新たな疫病のリスクが挙げられる。

疫病リスクが懸念されるのは当然だが、それは世界に蔓延する脅威の暗喩でもある。

すなわち、金融危機やコンピュータ・ウィルスに関する脅威だ。

それらの危機は同じ倫理に従う。

すなわち、それはネットワークの倫理であり、接続することによって、ある種の混乱に対して、極端な病理を生み出す。

それらのショックの特徴は、非線形の世界で起こるという点だ。

 

……21世紀世界における幸福を考える

ポスト産業社会の経済のありのままの現実を、通貨単位で計測するのは難しい。よって、ユーロや米ドル以外の方法で、そうした現実を把握しようと主張する人々がいる。

ブルードンは、通貨に代わるものとして、労働者が実際に働いた労働時間を明記した「労働証書」によって商品の売買をすることによって、資本主義を廃止しようと提唱した。

この論争からは問いが生じる。

資本主義が生産力の発展をきちんと支えられないほど、狭い枠組みなのであったとしても、資本主義以外に実現可能な方法はあるのだろうか。

 

本物、あるいは、仮想の通貨によって、富を計測する代わりに、富を幸福の単位で計算するのは可能だろうか。

 

センによると、経済学者は「帰結主義者」だという。

すなわち、経済学者は、果実だけから樹木を判断するのだ。

Aを好むのなら、Bを消去しAだけをキムに与えれば、時間もお金も節約できるのではないか……。

しかし、彼の社会学者マックス・ヴェーバーの表現を借りれば、世界を合理化しようとして、キムは「鉄の檻」に閉じ込められる。

つまり、彼の生活から最も重要な側面である自由が奪われるのだ。

こうした分析から、センは、公共政策につつましい目的を付与した。

つまり、それは、自分の期待に見合う生活が送ることができるための「ケイパビリティ(潜在能力)」を、全員に与えることだ。

センがキャパシティーとアビリティーという2つの単語を合成してつくった「ケイバビリティ」という概念は、人間にはその人が望むように生きられるようにするための資源を与えなければならない、という意味だ。

人生における様々な選択の際に、本当の自由の獲得を促すのが哲学だ。

仮に状況の制約によって決定されたのなら、より幅広い選択肢をその人に提供する余地がある。

そのような選択肢より、その人が最終的に同じ選択をする場合でも、さらには別の選択が、その人の幸福感を実際に減らす場合であっても、その人の行動力が高まる。

人々が望むような暮らしを起点にして考えると、人々を一人ぼっちで、さまよい歩かせるような新自由主義には至らない。

 

訳者あとがき

朝日新聞のインタビュー

経済成長によって豊かになったことで、人はなぜ幸せにならなかったのか?との記者の質問に対し、

「人が幸せを感じるのは、成長が加速する時であって、成長が止まれば消える」とし、「人を幸せな気分にするのは成長であって、豊かさそのものではない。

『もっと、もっと』という感覚だ」と続けた。

つまり、経済成長とは「麻薬中毒」のようなものであって、21世紀に生きる私たちは、エコロジー上の大災害を招くこの中毒から、脱出すべきだと説いている。

 

現代社会にとって幸福とは

アランの『幸福論』によると、「幸福は、あのショーウインドーに飾られている品物のように、人が、それを選んで、お金を払って、持ち帰ることができるようなものではない」という。

「君が、将来幸福であるように思うとしたら、それは今、君はすでに幸福を持っているからだ。

期待を抱くこと、それはつまり幸福であるということなのだ」。

トクヴィルが観察したように、新しい国民(アメリカ人)の幸福感は、刹那的な事象に左右されるため、移ろいやすい。

本書が問題提起するように、そうした幸福感を支えてきた経済成長が途絶えた日本やヨーロッパでは、人々は本物の幸福に向き合わざるを得ない。

したがって、成熟国家における真の幸福は、「地道に自己鍛錬する過程で期待を抱き続けられる状態」と定義できるかもしれない。

 

私(チキハ)の感想です。

経済成長が、情念の貧しさを覆い隠していた、というのはよく分かる。

そして、いま日本のような成熟国家は本物の幸せに向き合うときが訪れている、というのも理解できた。

ただ日本と西洋の違いを感じてしまう。

それは、自然と調和して生きる日本人のことを思い起こさせる。