『善と悪の経済学』(トーマス・セドナチェク、2015)
とても興味深い本です。
経済学を神話から現代にかけて、幅広い観点から書いているところが特色です。
最後の章ではこのように書いています。
「本書を通じて、私は、数学的モデルに依拠する還元主義的・分析的なアプローチに対抗しようと試みてきた。
そして経済学には他の学問、例えば、哲学、神学、人類学、歴史学、文化誌、心理学、社会学と深い結びつきがあり、多くの接点があることをいくらかでも示したつもりだ。
注意深い読者なら、本書が答えを出していないことにお気づきだろう。
(間)
経済学者は、「人間というものをどう捉えるか」を改めて考え直すべきである。」
私が特に興味を惹かれたのは、現在、中東での争いの中心的な民族ユダヤ人の祖である、ヘブライ人の感性です。
<以下一部抜粋・要約>
旧約聖書
現実主義と反禁欲主義
ヘブライ人が、西洋文明にもたらした貴重な遺産は、進歩の観念の他にもまだある。
英雄や自然や支配者から神聖性を剥ぎ取ったことだ。
いくらか誇張を承知で言えば、西洋文明に影響与えたあらゆる思想の中で、ユダヤ思想は最も現世的て現実的だと言ってよかろう。
支配者も、ただの人
旧聖書の教えは、支配者、現在流に言えば政策担当者をも非神聖化した。
神はモーセを通じて、ファラオに対して立ち上がれとユダヤ人に呼びかける。
のちにはイスラエル王国の王たちでさえ、預言者からお前たちは全能者ではない、お前たちは神と同じではなく、神の僕である、と繰り返し指摘される。
そもそも政治支配者という観念自体が、主の意思に反するとされた。
秩序と知恵の称賛
創造された世界にはある種の秩序があり、この秩序は人間にも認識できる。
このことは、科学や経済学の方法論にとって非常に重要な意味を持つ。
世界は秩序建てて創造されたのであり、世界の創造には知恵と理性が関わっていた。
逆に言えば、合理性を重んじる理性的で賢い人なら、世界が創造された方法を少なくとも部分的には解読できるはずだ。
遊牧民の自由と都市の束縛
ヘブライ人はエジプトから解放された過去を持つため、自由と責任を極めて重視する。
もともと遊牧民だったヘブライ人は、束縛を嫌い、自由に移動する生活を好む。
1カ所に定住しなければならない農耕生活は、彼らには窮屈に感じられた。
ヘブライ人の理想は、楽園が都市でなくエデンの園だったことも表現されている。
モーセがじつに偉大だったことの1つは、不平を言う人々に対して、奴隷になって「ただで」食べ物をもらうよりも自由で飢えている方が良いのだ、ときっぱり言い切ったことである。
社会の幸福ーーソドムのようにふるまってはならない
安息年と大恩赦の年
6年の間は、畑に種を撒き、葡萄畑の手入れをし、収穫することができるが、7年目には全き安息を土地に与えねばならない。
さらに49年目ごと、つまり50年目には大恩赦が行われるヨベルの年が来る。
この年には、土地は元の持ち主に返還される。
落ち穂拾い
もう一つの社会的措置として、落ち穂を拾う権利が挙げられる。
旧約聖書の時代には、この権利は貧しい人々に最低限の生活手段を保証するものだった。
畑の持ち主は最後の1粒までは収穫せず、落ち穂を貧しい人々のために残しておく責任があった。
10分の1税と初期のセーフティーネット
すべてのイスラエル人には、収穫の中から10分の1税を納める義務もあった。
自分が手にしたものが誰のおかげかを改めて認識し、税を納めることによって感謝の意を表明する。
収穫の最初の実りは主のものだ。
自分が生産したら自分のものだとは考えず、必ず10分の1を主に差し出す。
これは寺院に収められた。
また3年ごとに、レビ人、外国人、孤児、寡婦にも与えられた。
抽象的な貨幣、利子の禁止、債務時代
現代はお金と借金の時代であり、後世には多分「債務時代」として記憶されることになりそうだ。
最初の貨幣は、借金の額を記載した粘土版の形をとって、メソポタミアに出現した。
この債務は転移可能だったから、やがて債務が貨幣の役割を果たすようになる。
「創世記」には、金銭取引に初めて言及した箇所があって興味深い。
それは、アブラハムの物語の中に出てくる。
アブラハムは妻サラを埋葬するためにヘトの人々に墓地を売ってほしいと頼む。
ところがヘトの人々は、墓地は売ったりはしない、差し上げると言い張る。
それまで「創世記」に記録されている財産の取引には、お金は一切絡んでいなかった。
信用には、つまりお金を貸す行為には利子がついて回る。
しかし、ヘブライ人にとって、利子の問題は社会の問題だった。
旧約聖書には、「もしあなたが私の民、あなたと共にいる貧しいものにお金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。
彼からは利子をとってはならない」とある。
利子を取ることが、罪が罪でないかは数千年にわたって議論されてきたが、旧約聖書には、ユダヤ人が同じユダヤ人から利子を取ることをはっきりと禁じた箇所がある。
だが、歴史の進展とともに借り入れの役割は変わり、富裕層は投資目的で借りるようになる。
今日では、貨幣と債務は位置づけも重要性もはるかに高まり、もはや債務(財政政策)、金利、通貨供給量(金融政策)の運営によって、経済・社会の方向性がある程度まで決まってしまうほどである。
エネルギーとしての貨幣
ーータイムトラベルと債務総生産(GDP)
ここで、利子を悪とするのは古代の根強い伝統であり、それはアリストテレスから始まったことを知って意識しておこう。
アリストテレスは倫理的な観点からだけでなく、形而上的な理由からも利子を批判した。
時間と貨幣の関係は実に興味深い。
貨幣はいくらかエネルギーに似ており、時間軸に沿って移動できる。
このエネルギーは大変役に立つと同時に極めて危険でもある。
このエネルギーを時空間の連続体の中におくと、どこにおいてもそこで何かが起きる。
エネルギーとしての貨幣は3次元的に移動可能だ。
垂直方向(資本を持つものが持たないものに貸す)、水平方向の貨幣は3次元的に移動可能だ。
水平方向(水平的すなわち地理的な移動のスピードと自由度は、グローバリゼーションの副産物、いやむしろ推進力である)はもちろん、人間とは異なり時間軸に沿っても移動できる。
貨幣のタイムトラベルが可能なのは、まさに利子があるからだ。
貨幣は抽象的な存在であり、状況にも、空間にも、そして時間にさえ縛られない。
ただ約束すればいいのだ。
書面でもいいし、口頭でも構わない。
労働と休息ーー安息の経済学
古代ギリシア人は労働を否定的に捉えていたが、旧約聖書では労働は決してそのように貶められてはいない。
労働が呪いに変わったのは、人間が罪を犯した後のことだ。
主がアダムにかけた唯一の呪いが、労働を苦しく辛いものにすることだった。
人間は、生まれながらにして労働を運命づけられているが、その一方で生産性の追求には制限が設けられていた。
ヘブライ思想は、聖なるものと世俗と峻別した点に特徴があり、聖なる領域では、時間の節約をしたり、合理化したり、効率を最大化したりすることは許されなかった。
その端的な例が、安息日(土曜日)の定めである。
安息日には誰も働いてはならない。
使用人や家畜も、である。
安息日は生産性を高めるために設けられたのではない。
安息日は絶対であって、主は天地創造の7日目に休んだ例にならっている。
主が疲れたから、あるいは元気を回復するために休んだのではなく、大仕事を成し遂げたから休んだ。
仕事をやり遂げたら、達成感に浸り、成果を楽しむ。
7日目は、楽しむための日なのである。
今日の経済学からは、この視点が抜け落ちている。
経済活動には、達成して一休みできるような目標がない。
今日では、成長のための成長だけが存在し、国や企業が繁栄しても、休む理由にはならない。