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渋沢栄一って、日本資本主義の、父らしい

『超訳 論語と算盤』(渋沢栄一、訳 阿部正一郎、2011)

 

2024年度前半に、1万円札の顔が、渋沢栄一に変わります。

この有名なタイトル、『論語と算盤(そろばん)』というのは何度か聞いたことがありました。

私がこのタイトルからイメージしたのは、道徳的な心と、利益をはじき出すこと、この2つを同時に出来る、実践的な方法を述べているのだろう、ということでした。

実際読んでみると、道徳、というものが、ここでは非常に高い志を指していました。

心が、高揚するような感覚を覚えました。

<以下一部抜粋・要約>

 

はしがき

渋沢栄一は「日本近代経済の父」あるいは「日本資本主義の父」と呼ばれている。それほどに明治維新後における日本の経済そしてビジネス界で重要な存在であった。

多くの銀行や会社を立ち上げ、育て、後進の者たちにそれを任せ、譲っていった。こうして日本の社会に今につながる資本主義経済の基礎をつくり、発展させていったのである。

その発展は“世界の奇跡”でもあった。

明治以降の日本の経済発展・資本主義の進展が‘奇跡”と呼ばれたのには訳がある。

それは資本主義というものがアメリカとイギリスなどの1部ヨーロッパ諸国以外には生まれ育たなかったからである。

これを学問的に解明したのがマックス・ウェーバーである。

マックス・ウェーバーはキリスト教・プロテスタントの宗教的倫理観に基づく仕事・ビジネスによってこそ資本主義は発達するという。

つまり誠実そして勤勉に仕事に打ち込むこと、そしてそれによって適正に利益を得ること、合理的に計算し真摯にビジネスを運営していくことが認められ普及することによって、初めて資本主義が成立するというのである。

マックス・ウェーバーはもちろん気づかなかったが、アジアの小さな島国、ちょうどこの資本主義の精神にぴったりの精神が存在していた。

それが日本の武士道精神である。

しかし、武士道精神は武士の持つものである。

これを実業家・ビジネスマンたちにいかに移行するのか。

そこに登場したのが渋沢栄一だったのである。

渋沢栄一はもともと武士ではない。

農民の子である。

しかし、幕末の風雲急を告げる時に、15代将軍徳川慶喜の家臣となった。

その上でヨーロッパにも派遣され、資本主義の何たるかを若くして学んだ。

ついに明治維新となり、欧米の文明を学び、資本主義とビジネス社会が、まさに始まろうとした。

このままでは大変なことになる。

西洋はキリスト教の基盤があっての経済社会、ビジネス界なのである。

こうして渋沢栄一は武士道精神、特にその中核の1つである「論語」の教えこそ、日本のビジネス道の基本としなくてはいけないと考えたのである。

そして、それを身をもって実践し、成功させ、後世につづく日本経済発展にしようと決意した。

 

不況というが、明治の始めの時代を見よ。

敗戦後の日本経済を見よ。

何もない、ゼロのようなものだったではないか。

あるのは渋沢が目をつけた武士道精神の遺産と論語を生活の実践にまで高めていた日本人の勤勉な精神とつよい向上心、冒険心(起業家精神)だけだったではないか。

だからいつも謙虚に渋沢栄一に帰る必要がある。

特に苦難の時、困難な時、大不況の時である。

渋沢栄一が日本人のために残してくれた『論語と算盤』は日本のビジネスマンのバイブルなのである。

(なお、本書は渋沢栄一の著書を、今を生きる読者の方々に読みやすいように思い切った現代語訳【いわゆる超訳】をしたものである)

 

第6章 人格と修養

人の価値をどこで測るか

その人の実践していることを観察し、その動機は何かを見抜き、そしてその人の行為の結果を後の人がいかに貢献したものかを考察しなければ、評価する事はできないということになる。

人を真に評価するためには、富貴(富と地位)、功名に属するいわゆる成功や失敗ということは第二において、まず第一には、その人の世の中にいかに尽くしたかの精神とその効果によってすべきものである。

 

道理に従ってことをなすものは必ず栄える

世の中には、悪運がつよいため成功しただけの人もある。

だから、人を見るのに、単に成功したとか失敗したとかいって、それを基準にして考えるのは根本的に間違っている。

人は人としての務めを果たしているのかを基準にして、自分自身の人生を歩んでいくべきであろう。

だから、例えば人が運なく失敗することがあったとしても、それだけで失望したり悲観したりすることなど必要ないことなのだ。

そういう意味では、成功とか失敗とかは、ただその人の真摯な人生・大事な人生の後に残ったカスのようなものである。

 

現代人の多くは、ただ成功とか失敗とかそれのみを眼中において、それよりもっと大切な天地間にある道理を見ていないのではないか。

人生の本質のところを見失い、人生のカスに過ぎない金銭、財宝ばかりを見ているのではないか。

人はただ、人たるの正しい務めを果たしていくことを心がけ、自分に与えられた責務を果たして生きていくことを心がけなければならない。

 

広い世界には成功すべくして失敗した例はいくらでもある。

智者は自ら運命をつくると聞くが、運命のみが人生を支配するのではない。

智惠がこれに伴って初めて運命を開拓することができるのである。

 

いかに善良なる人格者でも、肝心な智力が乏しいために、ここぞというチャンスを逃したら成功などできるものではないだろう。

 

人生の行路は様々であって、時に善人が悪人に敗けたように見えることもある。

しかし、長い目で見れば、善悪による差というのは、確実についてくるものである。

だからこそ、成功や失敗について是非善悪を論じるよりも、まず誠実に努力しておれば、公平無私なる天は、必ずその人に幸し、運命を開拓するように仕向けてくれるのである。

道理は、天井にある太陽や月のように、いつも私たちの上にある。

だから道理に従いことを成していくものは必ず栄え、道理に反することをするものは必ず滅ぶ。

一時の成功や失敗は、長い人生、価値の多い人生において、出てはすぐ消える“あぶく“のようなものだ。

それなのに、この“あぶく“に憧れて、目の前の成功や失敗だけを気にしているものが多いようでは、国の将来が思いやられる。

どうかこのような不埒な考えはやめて、実のある生活を心がけてほしい。

 

私(チキハ)の感想です。

痛い、胸が……

気を取り直して、書きます。

「天地間にある道理」って、深くないですか。

社会に出ていくと、出会う人それぞれに、思惑や、正義があって、判断に迷うこともしばしばです。

なにを指針にしたら良いのかよくわかりませんでした。

手ひどい痛み(失敗)から多くのものを学びました。

それを経て、はっきりとはわからないまでも、気づくことがありました。

それが、道理ということだったのか、と思いました。

昔の人には、「あの人には徳がある」などと言ったものだと聞きますが、今の大人(戦争に負けた後の日本)には、それらしい教えはなかったのではないでしょうか。

 

読後に、人を見るとき、その行為の動機を考えるようになりました。

そうすると、人の価値が見えてくるようで面白く思いました。

きっと、その人に合った報いがあるのだ、と思いました。

そう思うようになったのは、学んだからです。

自分をかえりみると、ヤベェっす報いが(もう受けてるけど)。

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