現実は自分で作ってるってどゆこと?
わかりそうでわからない。
とんかつを食べたことのない人にとんかつの旨さをいくら語ってもわからない。
だが、近い感覚というのはあると思う。
粉をふった豚肉に卵をくぐらせることで、うま味とコクがでる。
そこにまぶされたパン粉は、油で揚がってサクッとした食感をつくる。
サクッと始まり、閉じ込められた脂身、肉汁が口の中になだれ込んでくる。
口の中はいけない快楽のよだれで満たされるのである。
いけない快楽とは、脳内には快楽物質が出るが、過剰なあぶらとタンパク質は体内への負担が大きいからである。
人はそれを「うまーい」と言うのである。
では、本題に入りたい。
何を話したかったのか、忘れてしまった。
「最近は、物忘れが」と言って、いつも周りの人から「昔からだろ」と突っ込まれるやりとりをここでもやろうというのか。
いや、思い出す努力はいつでもしなくてはならない。
今日はなんだかこんな文章のようである。
思い出した。
現実は自分が作っているのだった。
つまり、こういうことなのかもしれないという感覚を書きたい。
療養を自宅でしていた時、私は一人で住んでいたので、一日中だれにも会わず、だれとも話をしないという日々をそれこそ、数か月単位で過ごしていた。
コロナ禍ということもあって、世間的にも人と会わない環境だった。
ある日目が覚めると、私は死んでいるのかもしれないと思った。
ここがあの世でないと言える人は私しかいないのである。
あの人との関係も、この人との関係も家の外ももはや私の中の想像でしかなかった。
そんな不思議な感覚だった。
それは、自分が現実を作っていると思うことと似ているかもしれない。
最近熱を出して寝ていた。
とても胸が苦しい感覚があった。
原因はわかっていた。
向き合わなくてはいけないものがあるのだ。
それは、自分が作り出している心理状態なのだ。
私は臆病なところがある。
たとえば修学旅行をすっぽかした。
怖れたのだ。
異性と深入りできない。
それも怖れだ。
人との関わりの中で、楽しいことより、苦しいことや痛みのほうに意識が向かうのだ。
それはまずい飯を食べたような感じだろう。
ねちゃっとした食感の豚肉の脂身、ハエが入っていた牛乳、ラップが入っていた料理。
そんなものばかりを食べていたら、食べ物に臆病にもなるだろう。
幸い、母親の作る料理は美味しかったので、そんな恐ろしい物が出ても食べ物は美味しいという心理状態は維持できた。
だが、人間に対する感情は、根深かった。
私の男性に対する嫌悪感には原因がある。
父親に対して抱く心理状態だ。
私は、あるイメージワークを必要とした。
それは、私の中の嫌悪の原因となる心理状態を手放すことだ。
「こっちはよくて、こっちは悪い」というジャッジは私を被害者にする。
子供であった私が、被害者意識を持つのは当然のように思うが、そうは思わない人もいるのだろう。
自分は可哀そうな人、という弱いエネルギーが自己否定にあるのだと理解する。
相手が悪い、というのは、非難のエネルギーでどちらもネガティブである。
父親も母親もまた、その意識にとらわれている人であったのだと、理解する。
私は、どちらのエネルギーも手放して、穏やかな愛に至りたいのである。
これは、美味しい料理を食べたいのと似ている。
イメージワークの中で、被害者意識のシンボルとなる「盾」、被害者意識が極まって逆上する加害者になるシンボルは「ナイフ」。
ジャッジのシンボルとなる「定規」を見つけ出して、捨て去り、浄化するのだ。