ユタカ2イキルオテツダイ

ほんの少しずつ、ゆたかになってゆきましょう

世間とずれていると感じている孤独なあなたへ

職場でデジカメの話になって、私は一眼レフがいいなぁ。

「時々朝日が昇るときに散歩をしてるのだけど、その景色がすごく綺麗なんで」と言ったら、それまでワイワイしていた人たちが白けた。

私は、やっぱり私が本当に大切に思っていることとか、そういうのは言わないほうがいいんだなぁと思った。

大概は黙っているのだけれど、最近少し閉じていた扉を開くことがあって、そして、こんなふうに、まぁ、思うのだった。

本当に、その景色は、一瞬だけ、何とも表現しがたい輝きや美しさがあって、それは二度と来ないその時だけの瞬間のものなのだ。

朝の黄色い光が、閃光のように、地上を射し、少し濡れた、小さな地面に広がる生きた草死んだ葉が、そこに照らし出される。

その前には、必ず鳥たちが鳴いて、すーっと黒い影で空を横切るのだ。

黒い空が蒼くなって、空気は澄んでいる。

地面の湿った草に手をついて、真上の空を見上げることは、ぐるりと1回転したような錯覚を起こさせて、クラクラする。

ヨガの三角のポーズだ。

私は眼をキラキラさせてゆっくり息をする。

鼻から新鮮な空気が肺に充分に入り、全身に広がっていくのを観察する。

その平行感覚を失ったような感覚とともに、日常から離れた不思議な世界を体験するのだ。

これは私だけの特別な感覚だ。

こういう自分だけの特別な感覚というのは、誰にでもあるのではないかな、と私は思っていた。

いた、と言うのは、どうやら人というのは、こういった自分だけの感覚というものに対して、無視するのか、意識しないようにしているのか、麻痺してしまうのか、話が通じないことがあって、それからこういった話をあまり人としていない。

あまり、というのは薄い部分では話すということだ。

リアルでは、息子だけが不思議な話を、聞いている。

このブログを読んでいる人の中には、通じている人がいると勝手に思っている。

世の中と言うのは、割と嘘をついているんだけど、それは人がうまく生きていくために、作り出したものであるが、良くできて回っている時と、それがうまく回らなくなって悪く出てくる時と様々に入り混じっているものだと思う。

藤原直也さんは、日本というのは、源である一つの神(一神教)と、多くの神(多神教)と、すべてのものに神が宿る(汎神教)とが同居しているのだと言う。

私は凡人の中で生活をしていて、その中で生きていくには、汎神論が有効だ。

そこで、先程の個人的な感覚というものがよみがえってくる。

大概の人は、夢遊病患者のように、何かに取り憑かれて生きている。

何に取り憑かれているのか、それは、世間の目だ。

その人が人としてものをとらえ始める以前からの環境の中で、それは形成される。

そう、大人になった今、自分の生まれてから小学校までの間の日常を、映像で見ることができたら、自分がどのように生きてきたのかを知ることができるだろう。

失ってしまった自分の素直な気持ち、本来持っていた自分らしさの感覚、悲しみや欲望、激情。

その感覚を、私は思い出そうとしているし、人を見ていて、その人が枠の中にいることを見ている。

そして、歪められる前の姿に姿を想像してしまう。

もっと伸びやかで、美しく、才能に溢れ、エネルギッシュで、素晴らしい。

だけれど、それを伝えても、彼らは、世間の方を信用する。

それは強力なゴムのように、強い力で引き戻すのだ。

なぜそれを私が知っているのかと言えば、息子が、小さいときに、私のことをよくほめてくれていたからだ。

私にも小さい頃、親をほめていた記憶がある。

愛情を伝えていた記憶がある。

だが、彼らはそれを信用しなかった。

そして私も、ずっと、その息子の素直な意見に疑いを持っていたのだ。

だが、最近だ、それを信用しようと思ったのは。

私が生きる為に、自分を小さくし、没才能にし、無力化してきたことを認めたからだ。

これは、目から膜がはがれるような感じがした。

私を愛するはずの親も、周りの大人も、私を愛してはいなかった。

むしろ、喰いものにしていたことを理解したからだ。

こういった書き方は、誤解を生むだろう。

そうではない親の元で育った人には、理解されないだろう。

私が、自分を歪めていったのだ、という反論は当然あるだろう。

それは、ある。

親のケンカの中で、姉のはけぐちの中で育った末っ子の、優しいという存在価値は私が、私に与えたものでもあったのだろう。

それは、限界を迎えて死ねるのかと思ったが、それは通過点だった。

私には、まだ先があった。

息子の純粋な瞳の中に、彼の素直な感覚の中に、映し出される才能や美しさや尊厳を認めることは、怖れを生む。

失われた自分を、見つけることは、光と影を直視することだ。

どちらも、私には負荷が大きいと思う。

だから、命がけで逃げてきたのだ。

だが、私の全てを分かって許せるのは私一人なのだとあきらめた。

いつもそこに戻ると、私がいると知れば、依存や執着から逃れることが出来る。

今は、周りの人にも優しいけれど、自分にも優しい。

境界線を引くことを覚えた。

私を喰う人とは距離を置く。

執着しない。

悲しまない。

自分の輝きを守る。

ここまで来るのに、長い時間が必要だった。

ここに書かれていることのほとんどの洞察は、ユングが「共感者・内向的直感型」といった類の人たちを研究したもので、それを知ったとき私はかなり衝撃を受けた。

(YouTubeで見たもので、書籍などで確認をしていない。)

読者に伝えてたい。

あきらめてほしい。

あなたを救えるのはあなたしかいない。

救わなくていい、と思うならそうしたらいい。

私にはよく分からないが、最近では、こういう話はよくあるように思う。

社会も、宗教も、親も学校の先生も、周りの大人も、そんなにすごくない。

だから、心の奥底で、自分をゆっくり育ててほしい。

世間は今から、大きく変わる。

そういう流れが来ている。

AIの台頭は、一般の人に、力を与え、目覚めさせる大きな波となる。

あなたは、東大卒?みたいな知能を、秘書に出来るのだから。

 

この記事が、誰か応援歌になれば幸いです。